其の九「あのとき、おれは鬼畜になっちまった」
ありゃぁいつだったか、きゃつから餓鬼の時分の話を聞いたことがありやす。きゃつぁ、嘘か真か、かの
当時の名ですかい? さすがに、そいつぁ知りませんや。
餓鬼ながら、弁も腕も立ったたぁ本人の弁でごぜぇますが、三つ子の魂百までっていいやすからねぇ、あながちほらでもございますめぇ。
さて、きゃつの兄弟子のひとりに、たいそう出来のいいのがいた。河畑とちがって、弁と腕だけじゃあなく
若き日の河畑深左衛門ぁ、この兄弟子に特に目をかけられてよくしてもらっていたそうで、きゃつ曰く、まじの兄貴みてぇに慕っておったそうな……信じられやすかい? 俺ぁ、信じられねぇね。
ところでこの兄弟子、すでに刑場に入って斬首を任されるまでになっていたが、ある日、とんでもねぇ事件を起こしやがった。
罪人を逃がしちまったんです。
この罪人ぁ、濡れ衣を着せられたってずっと訴えてやしてねぇ。兄弟子はほだされちまったのか、納得がゆかなかったのか――もし濡れ衣ごと首を斬っちまったら、刀が錆びるとでも思ったのかもしれねぇ。誇るべきお役目が
本当のところはわからねぇが、とにかく兄弟子ぁ刑場への道すがら、罪人の縄をばっさり斬っちまったんでさぁ。
罪人は走って逃げだしやしたが、まぁ、逃げおおせられるわけがねぇやな。あっさり、お縄についちまいやした。兄弟子もそこは覚悟のうえだったんじゃぁねぇかな。ただ、きゃつなりに物言いをつけたかっただけなのかもしれねぇ。
とはいえ、当然許されるこっちゃありやせん。罪人はもちろん斬首、しかるのち、兄弟子も斬首って仕儀になっちまいやした。山田浅右衛門家は浪人だから、切腹ぁ許されなかった……ただ、浪人だったおかげで、家名断絶の憂き目ぁ見ずに済んだそうな。まぁ、実際ぇのところぁ、代わりがいねぇから内々に済ませたってのもあるんでしょうがね。
問題ぇは誰がふたりの首を斬るかってぇ話だが、ここで名乗りをあげたのが、我らが河畑深左衛門でさぁ。お家は一も二もなく、首を縦に振った。誰も兄弟子の首を斬りたかなかったってぇのもありやすが、兄弟子にいっとう可愛がられていた河畑がやりゃぁ、内外に示しがつくってぇ目論見もあったんでしょう。
なんで河畑が名乗りをあげたかって?
へへ、こいつがお笑い
そうなんでげす。きゃつにも餓鬼の時分があったんでさぁ。慕っていた兄弟子が不始末をしでかして死罪となったんだ、きっと気が気じゃなかったんでしょうよ。めそめそ泣いてやがったかもしれねぇ。趣深ぇもんでさぁ。
その日はあっという間にやってきた。
まずぁすべてのはじまり、くだんの罪人の斬首でさぁ。ところは
罪人、今際の際にいわく――「絞られど 乾くことなき 濡れ
河畑ぁ、罪人の首を一刀のもとに斬り落とした。その残心ぁ震えてやした。
なんとなれば、きゃつぁこの辞世に心を打たれたからだそうな。兄弟子の情けへの感謝らしかったこともあるが、なにより、末期に及んでなお手前の無実を訴えている。
こいつぁまじに濡れ衣だったんだ。兄弟子はまちがっちゃいなかった、伝えてやんなくっちゃあ――河畑ぁそう思ったそうな。
ところが。
くだんの罪人の首なし死体ぇを片付けているあいだに、河畑は聞いちまったんでげす。野次馬のひとりが、「あいつは濡れ衣なんかじゃあねぇ」「俺ぁ見たんだ」……とささやくのを。
河畑ぁ、どうしたと思いやす? その野次馬に殴りかかったと思いやすか? くだんの罪人の首なり、首なし死体ぇなりを足蹴にしたとでも思いやすか?
いやいや、きゃつぁそんなこたぁしなかった。
きゃつは――これまた、心を打たれたそうです。死ぬまで嘘ぉ
たぁいえ、兄弟子がほらを信じて――まんまと騙されて死ぬことになっちまったってのは、いただけねぇ。このままじゃぁ、兄弟子ぁ三国一の笑いものです。兄弟子の名誉のためにもなんとかしなきゃならねぇが、さて、なにをどうしたもんか……
思い悩んでいるうちに、兄弟子の斬首のときがやってきた。
兄弟子、今際の際にいわく――「罪を積み 罪なき斬首 摘まんとす」……
泣かせる辞世じゃねぇですか。手前の罪でもって、のちに無実の罪で首を斬られる奴を減らしてぇとはよ……実際、野次馬の中にゃぁ泣いている奴もいたっけ。きっと、くだんの罪人が濡れ衣でもなんでもなかったってなぁ、あまり知られてなかったんでしょう。
そのとき、一陣の風が吹きやした。雲が流れて日は隠れ、
そんな中、河畑は兄弟子に、そっと本当のことを話したんでさぁ。
何故かって?
そりゃ、信じてたんでしょうよ。きゃつぁ、兄弟子のことをよぉく知ってる――つもりでやしたからね。
兄弟子なら、真実を知ってなお、立派に死にとげるにちげぇねぇ……いや、真実を逆手に取った、すばらしい辞世を詠んで旅立つにちげぇねぇってね。そうすりゃ、兄弟子はただ笑われずに済むと思ったんじゃねぇかな。かわいいもんでしょう。それがいまじゃぁ……人は変わるもんでさ。
あのとき、あの場所でも、ひとりの男が変わった。
土煙の晴れるか晴れねぇかって頃合いに、兄弟子が躍りあがって、同心のひとりから刀を奪ったんです。なんの因果か、兄弟子の縛はほどけちまっていた。
そっから先ぁ、大立ちまわりでさぁ……同心どもも、まさか縛がほどけるたぁ思わねぇし、兄弟子の手並みも結構なものだったから、誰も彼も斬られちまって、ついにゃぁ兄弟子を刑場から出しちまった。
追うなぁもちろん、我らが河畑深左衛門!
かたや死罪人、かたや首斬り役人だが、兄弟子と弟弟子の間柄でもごぜぇやす。どうぞ方々、ありし日に追いかけっこに興じたふたりを偲んでやってくだせぇ。へへへ。
兄弟子は申しひらきもあらばこそ、弟弟子を開きにせんと刀を振る! 応じて河畑も刀を振る! 傾きはじめた日のもとで、刀と刀が涙のかわりに光を散らし、ぶつかりあっては慟哭したと思いねぇ。荒川の
……まぁ、実際のところ、けりはほんの二、三合でついたそうでさぁ。当然、敗れたなぁ兄弟子だ。この頃にはもう、河畑の殺人剣の芽ぁ出てたんでしょうな。
兄弟子は刀を捨て――命ごいをしたそうな。
そこにはもう、手前の命を賭けてお役目の誇りを守ろうとした男ぁいなかったんでさ。河畑が信じた兄弟子ぁ、いなかった。まさしく、土壇場で心が折れちまったんです。
いや、折れちまったって言い方ぁ、よくねぇやな……あのざまが、兄弟子の本性だったんでしょう。
そのときの河畑のつらぁ、いまでも忘れられねぇ。
悲しみでも、怒りでも、憎しみでもねぇ……目を爛々と輝かせて……ありゃぁ、そうだな……盗人が盗みに入ぇったさきで千両箱……いや、思いもよらねぇ宝を見つけたときのつら、つったら、ちぃと俗にすぎやすかねぇ、賊だけに。
河畑ぁ、兄弟子を斬った。
斬るめぇも、斬ったときも、斬ったあとも、先のつらのまんまでした。そのままきゃつぁ、暮れなずむ西日の中に消えた……刀に血振りもくれずにね。
河畑ぁいってやしたよ。「あのとき、おれは鬼畜になっちまった」ってねぇ。
俺ぁいってやりやしたよ。「手前はもともと鬼畜だった」ってね。だって、兄弟子の縛を斬ったなぁ、きゃつにちげぇねぇんだから。兄弟子を、くだんの罪人と同じ境遇に置くためにね。そうでなきゃぁ、公平じゃねぇと考えたんだろうが……死に臨んだ奴の覚悟を試そうって輩が、鬼畜じゃなくてなんだってんです。
俺が河畑から聞いた話ぁ、これでしめぇでさぁ……え? まるで見てきたような語り口だったって?
へへへ、実ぁね、見てきたんですよ。あの日、あのとき、あの場所に俺もいたんでさぁ。刑場の野次馬どもの巾着を切るほど、楽な仕事ぁねぇからね。
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