第19話 城下町



 ピクニックの翌日。

 真美はもう一度下町へ浄化に向かったとリュカに聞いた。

 たった一日で、あの子は元気になっただろうか。

 心配で寮の手伝いに身が入らない。


「アユミ、大丈夫だよ」

「! リュカ……」


 いつものように自室で事務仕事をしていたリュカが、二つのカップを片手に庭掃除をしていた歩美に近付いてくる。

 咄嗟にメイリアの姿を探すが、今は四階を掃除しているそうだ。

 別館の壁近くにあるガゼボへ案内されて、そこで二人、お茶を飲む。

 このガゼボは以前、歩美が魔物に襲われた時にリュカが枝木を切って整備、清掃した。

 すっかり綺麗になった庭。

 隙間の空いた屋根付きのガゼボからは陽の光が降り注ぐ。

 緑が生き生き生い茂るが、雑草も抜かれてそこには季節の花が咲いていた。

 とても穏やかな時間だと思う。

 そして、落ち着かなくもあった。

 自覚してしまったからだ。

 彼が、好きだと。


「…………アユミは、大丈夫なのか?」

「え?」

「聖女様が体調を崩されたのだから、その……、君も、と思って。不調があるならすぐに申し出てくれ。出来る事はなんでもする」

「……、……あ、う、うん、私は全然、不調とかは……」

「無理は、していないだろうな?」

「してないしてない!」


 テーブルに身を乗り出して、心配そうにされる。

 けれど、その僅かに縮んだ距離でさえ鼓動の音の速度が跳ね上がるのだ。

 両手を思い切り左右に振って否定した。

 目が泳ぐ。

 本当に、距離が近付いたものだ。


「なら、いいが……。アユミは存外、目を離しておけないからな……」

「え、なにそれ、どういう意味?」

「突然いなくなる」

「…………」


 目を逸らす。

 いや、顔ごと逸らした。

 恐らく真美が突然いなくなった騒ぎの時の事だろう。

 確かにあの時は、真美共々聖霊の力で消え去っていたらしく、お城は大騒ぎだったらしい。

 ほとんど一日近く消えていたようなものだ、そう言われても反論は出来なかった。


「目を離すと、魔物にも襲われる」

「………………」


 それは、歩美のせいではない、と、思いたい。

 確かに少し……気合いを入れて草むしりをしすぎて、予定していたよりも柵の周りを綺麗にしすぎたが。

 まさか魔物に遭遇するなんて、歩美だって思いもしなかったのだ。

 魔物があんなに身近にいるなんて、知らなかった。

 確かに、魔物はどこにでも現れるとは言われていたけれど。


「そ、その節はどうも……」

「こちらの身にもなって欲しい。今だって一人で外にいるし」

「…………」


 そういえばそうだった。

 外へ出る時は、極力誰かと一緒にいるか、扉付近に限られている。

 扉の付近ならコールが魔物に気付いてすぐに室内に逃げ込めるからだ。

 歩美がボケっと掃除していたのは別館の庭……つまりここ。

 柵の向こう側で、歩美は魔物に襲われている。

 それを思い出してだらだらと汗が流れてきた。

 本当に、ぼーっとしすぎである。

 リュカが少しお怒り気味なのはそういう事だろう。


「ごめんなさい……」

「ああ、本当に気を付けてくれ。魔物は……人間を食う」

「っ」

「……厨房の裏口の側にいなかった時は心臓が止まるかと思った」

「……す、すみません」

「けれど……君の顔を見たら怒る気も失せた」

「へ?」

「顔に全部出ていたぞ。聖女様が心配だ、と」

「…………」


 思わず頰を撫でる。

 そこまであからさまだったとは思わなかった。


「気になるなら、行ってみるか?」

「え?」

「城下町にだ。俺が一緒なら構わないだろう。メイリアには留守を頼んで……。ただ、本当にあまりよい状態とはいえない。ある程度覚悟はして欲しい」

「…………、……うん、分かった。お願い、連れて行って」


 リュカが笑みを浮かべた。

 柔らかな日差しに浮かぶ、柔らかな笑み。

 顔が熱くなる。

 立ち上がると、鎧の当たる金属音。


「君の望むままに」

「…………」


 手を差し伸べられる。

 淡いクリーム色の髪、優しい翠の瞳。

 物語の中の、王子様のような騎士。

 夢を見ているような感覚。

 その手を取る。

 包まれるように握られて、引かれて立ち上がった。

 木漏れ日の中の笑顔に、自分のなにもかもを委ねてしまっても構わないと思えるほどに……ぼんやりとしてしまう。

 これが『見惚れる』という現象なのだと、頭の中で思った。

 果たしてこんな事、元夫と付き合っていた時に経験しただろうか?

 こんな感覚に陥った事など、なかった気がする。

 胸がドキドキと脈打つ感覚は覚えているが、これほど強く「抱き締めて欲しい」、「あの唇に、キスをしたい」と思っただろうか?

 彼には申し訳ないが、これほどに強く誰かを求め、求められたいと思ったのは——……。


「リュ……っ!」


 ハッとする。

 真美に、会いに行かなければいけない。


「あ、い、行こう!」

「……あ……ああ」


 目を、無理やり背ける。

 今一瞬……真美の事を、忘れた。


(これ、ヤバくない?)


 真美にまだなにも言っていない。

 あの子が大変な時に、なにをしているのか。

 自分が猛烈に最低な人間になったようで気持ちが悪い。


(私、こんなやつだったんだ。嫌だ、最低じゃん、私……)


 母親でいると決めたのに。

 いくら自分の気持ちを自覚したからといって、すぐに真美の事を……娘の事を忘れるなんて自分で自分が信じられなかった。

 一人、早足で歩く歩美を、リュカが追い掛けてくる。

 歩幅が違うので、歩いていてもすぐに追い付かれた。


「アユミ、カップを置いてきても?」

「! あ! そ、そう! そうだね! ごめん!」

「いや、持ってきたのは俺だから」

「…………」


 裏口から厨房に戻ると、リュカに声を掛けられカップの存在を思い出す。

 振り返ると、リュカが流し場にカップを二つ並べて置くところ。

 その横にはティーポット。


「……リュカが淹れてくれたんだ」

「お茶くらい淹れられるさ。メイリアに声を掛けてくる。玄関で待っていてくれ」

「う、うん……」


 顔が合わせられない。

 歩美は、自分はきっとひどい顔で彼を見詰めただろうと分かっていた。

 ひどい顔で。

 そう……女の顔で。

 泣きそうだった。

 自分がそんな女だと思った事がなかった。

 死にたい。

 死んでしまいたい。

 消えたい。

 真美に合わせる顔がない。


『マスター……大丈夫ですか?』

「……あ、コール……。う、うん、大丈夫だよ」

『本当ですか? とても悲しい気持ちの気配がしますよ? 厄気になってしまいそうなほど……』

「っ」


 ハッとする。

 以前『厄気』の発生について学んだ時に、言われたのだ。

 厄気は大量の魔女や死者が生み出すものだが、生きた人間からも生まれる。

 歩美を襲ったあの魔物が放った厄気は、恐らく人の感情が素になったもの。

 呑み込まれ、沈み込むような感覚は、人間の絶望が栄養として取り込まれて、厄気の濃度を濃くしているそうだ。

 そう、今まさに白衣の天使……歩美が抱いている悲しみや苦しみも……。


「ご、ごめんね、コール……具合悪くなっちゃった?」

『ほんのちょっぴりだけです』

「……ごめんね……」


 ちょっぴり、と言うがコールの顔色はあまりいいとは思えない。

 手のひらで包み込み、抱き締めて頬ずりする。

 聖霊のコールには、厄気も厄気の素となる負の感情はあまり『よくないもの』なのだ。

 自分を責めて、自己否定で落ち込むのは程々にしないとコールに悪い影響が出てしまう。

 本当ならもっと反省したいところだが……。


『マスターが悲しくて、苦しい方がコールは心配なのですよ』

「…………そう、だね……うん……気持ち、切り替えるようにするね」

『はい!』


 同じように、この気持ちは改めて封じ込めなければ。

 そう、強く、強く思う。

 とんとん、と階段を降りてくる足音。


「アユミ、メイリアに話してきた。行こう」

「う、うん」

「……その、先に言っておくが……本当に大丈夫か? 町は……かなり荒れている。ならず者も時折現れるほどだ。もちろん、そういう輩からは守る。だが、気は抜かないように頼む」

「わ、分かった」

「では、聖女様のところへ行こう」

「……お願い」


 頷いて、寮から出た。

 そして、この世界に来て初めて歩美は城の外へと出る。

 騎士団寮を回り込むように森を抜け、城門を道なりに進む。

 間もなく、城門が見えてきた。

 リュカが言うにはここは正門ではなく裏門なのだそうだ。

 城下町はこの下。

 言わば近道。

 門番を勤めていた騎士にお辞儀をして坂を下る。

 その最中でも分かるほどにツーンとした饐えた臭い。


「うっ……」

『くちゃーい!』

「………………」


 食べ物の腐った臭い。

 それに、鉄の匂いだろうか。

 他にも汚物の匂いも混ざっている。

 坂を下り切ると下水道のような水路が城下町を覆う壁にそうように流れていた。

 恐らく臭いの元はこれだろう。


「っ!」


 なにか、人の手のようなものが流れていく。

 見間違いだろうか……。

 リュカを見上げると、彼は顔色一つ変えずに水路に架かる橋へと歩いていく。

 門があり、その先が城下町のようだ。

 進むリュカに付いて、いよいよ歩美は町へと踏み出す。

 そこは——……想像を超える、地獄。

 ゴミが散乱し、地面に人が倒れ、そのままになっている。

 腐敗し、蝿が飛び回る野菜の山。

 倒れた人は放っておいていいのか、とリュカに問うのも憚られるような……重い空気。

 なにより匂いがひどい。

 大通りをズンズン進んでいくが町を歩くのはリュカと歩美だけ。

 町の人は道端に寝ているか、座り込んでいる。

 店らしき建物に品物はなく、店主のような男は椅子に座って溜め息を吐いていた。

 時折リュカの姿を見て口を開きかける者もいたが、すぐに首を振って俯いてしまう。


「……前回、聖女様がお力を使えなかった事で……皆、意気消沈しているのです」

「! ……そうなんですね……」


 よほど期待値が高かったのだろう。

 しかし、頼みの綱の聖女は力が使えなくなっていた。

 それを見たこの国の民、この惨状で細々生きている人たちからすれば……絶望は計り知れない。

 しかし、絶望は『厄気』を肥え太らせる。

 先ほど歩美がコールに言われたような事を、この国の人たちの方が遥かに分かっていたはず。

 だから幼い真美にはなにも言わず、そして、リュカにも声を掛けられずにただ飲み込んで俯いたのだろう。

 健気であり、切なくもある。


「! あれは……」


 そんな時、リュカが左の方を見上げた。

 歩美もその方向を見る。

 町に座り込んでいた人たちも、店先にいるだけの店主も、わざわざ大通りまで出てきて空を見上げてた。

 その空は、晴れやかな青。

 光の粒が降り注ぎ始め、どんよりとした空気や雲を……消し去っていく。


「成功したのか」

「! それって、真美が?」

「はい!」

「聖女様のお力が戻ったのか!?」


 一人の男が叫ぶ。

 それに、疲れ果てていた表情の人たちが立ち上がり、表情を明るく、期待に満ちるものに変えていく。

 同じように皆でその空を見上げると、屋根の上から光はどんどん、城下町に降り注いでいく。

 範囲は広がり続けて歩美のいる場所も飛び越えていった。

 あのひどかった臭いさえ、気にならなくなるほどに光はなにもかもを清浄にしていく。

 これが……『浄化の力』。


「……どうやら心配いらなかったようだな」

「はい……」


 やはりあの子は強い子だ。

 たった一日で、乗り越えた。

 その光と、娘の成長に涙が滲む。

 王都の町の青空に架かる虹の橋。

 それを見上げて、眩しさに目を細める。

 広がる歓声。

 安堵の声や、溜め息、啜り泣く声。


「次は郊外、だな……」

「! ……町の外……」

「ああ。……畑の広がる農場地帯は、出来れば急いで浄化して頂きたい。……あの地が浄化されれば、食糧生産に兆しが見えるようになる」

「…………」


 町が浄化された今、これからは町の外も浄化する事になる。

 こんな悲惨な状況なのは、この城下町だけではないのだ。

 一瞬だけ、嬉しそうに微笑んだリュカはすぐに険しい表情に戻し、歩美にだけ聞こえる声でそう呟いた。

 彼の言っている事は、分かる。

 歩美も、そうするべきだと思う。

 この町の状況を、この目で見た今……反対など出来るはずもない。


「私も……付いて行ったりは……」

「…………」

「……だ、よね……うん、分かってる。冗談」


 真美が町の外へ出て行く。

 リュカは護衛を行うと言っていた。

 そして、戦争になったら最前線へ行くのは騎士団だと。

 もうすぐ、歩美の専属護衛ではなくなるのだ。

 より危険の高い方へ。

 最も守るべき『聖女』の護衛は、最も強い騎士団の団長が務めるべきだと。

 そんな事は最初から分かっていた事。

 そして、歩美自身も望んでいた事。

 真美を守って、と。


「問題もなさそうだし、城へ帰ろう」

「…………そうだね。真美、きっと疲れて帰ってくるものね。美味しいご飯で出迎えてあげないと! ……わ、私も最近はこっちの料理、美味しく作れるようになってるし!」

「ああ、そうだな。アユミの作るものは日に日に美味しくなっている」

「でしょー!」


 見届けた二人は踵を返す。

 やり遂げた聖女を迎えるべく。

 そして、明日から新たに遠出の準備が始まる事だろう。

 なにより、そろそろ魔女も真美の……聖女の存在に気付く頃合いだ。

 その対策もいよいよ必要となる。


(…………私は、なにも出来ない)


 無力を思い知る。

 そんな歩美に、リュカが微笑んだ。


「最近は布団が太陽に干したようにいい香りがして、よく眠れる。朝食も夕食も、楽しみにしている者が増えた。もちろん、俺もだ。アユミの料理は日々の楽しみの一つだな」

「……リュカ……」


 自分は無力だと、やはり思う。

 けれど、リュカにそう言ってもらえると、ほんの少しだけ罪悪感のようなものが軽くなる。

 同時に、真美への罪悪感がまた頭を擡げた。

 頑張る娘を……一瞬でも忘れてしまった事。


(考えない)


 コールの為に。

 そして、真美の仕事を増やさない為に。


「アユミ」


 見上げた彼の緑色の瞳。

 とても優しい色。

 泣きそうなほどに惹かれた。


「これからも君は、聖女様の帰るべき場所であってくれ」

「…………。……うん」


 これがお互いの答えなのだろうと、笑顔で頷いた。


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