第10話 母娘【後編】
『お前はマミの気持ちが分からない』
『マミはあんなに苦しんでるのに』
『これだから人間は……』
「真美……苦しんでる……?」
『ほーら、やっぱり気付いてなかった』
『マミはずっと不安だったのに、オマエはなんにも気付かない。マミ可哀想。こんな母親のもとに生まれて!』
『可哀想』
『マミ、可哀想』
『可哀想』
「…………」
真美が、苦しんでいた。
その事に愕然とし、リュカが懸念していたのはこの事なのではと思い至る。
「…………真美……」
胸が張り裂けそうだった。
おとなしいあの子が、人知れずなにかに苦しんでいた?
それはどんな事に苦しんでいたのだろう?
歩美には話せない事なのだろうか?
それとも、優しいあの子との事だから、母親には心配をかけさせまいと……溜め込んでいた?
「ま、真美に……真美のところに連れて行って! それなら尚更私は真美の話を聞いてあげなきゃいけない! ううん、私が真美と、話さなきゃいけないの! お願い!」
『ダメだ! マミの事を理解してないオマエなんか、ここで永遠に迷っていればいい!』
聖霊と思われる声が言い放つ。
しかし、それに怯む時間さえ惜しい!
「そんな時間ないの! 真美は……今も苦しんでるんでしょう!? 早く行ってあげなきゃいけないの! お願い、早く真美のところに連れて行って!」
『結局自分の事が一番大事なんだろう! お前は!』
「っ! …………まさか……真美には、そう、思われてたの……?」
『…………』
返事はない。
ざわざわ、ざわざわ。
森が風に揺さぶられている。
怒りと悲しみに満ちて、どこか失望に暮れているような。
ぽろ、と歩美の目から涙が落ちる。
「……ば、ばかなこ、と……言わないでよ……、真美が、真美が一番大切よ、ぉ……! あなたを産む時、どれだけ痛かったか……どれだけ大変だったか……! ……でもっ……生まれてきたあなたを、あなたの顔を、見た時……そういうの全部、どうでも良くなるぐらい……幸せで……! 私があの日からどれだけ……どれだけあなたの、ことをっ……! 大切に、大切に、想ってきたかっ……!」
本当に死ぬかと思った。
死ぬほど痛くて苦しくて熱くて。
痛みで気が狂うのではないかと思ったほどだ。
でもそれも、一瞬で消え去るほどに我が子を……真美を抱いた時の幸福感は形容し難い。
涙が溢れるほど柔らかくて温かい。
あの温もりを抱いた時から、母親になったあの日から、真美は世界で一番大切な存在。
「た、確かに私はまだお母さんとしてまだまだだと思う。一緒にいてあげられなかった時間が、多いから……! でも、心はずっとあなたの事、心配してきた! 愛してた! 真美の事ばっかりだった! 本当に、本当! 真美が苦しんでたなら教えて欲しかった! お母さんも一緒に、真美が苦しくなくなるよう考えたいから! ねえ、真美! 側にいるなら答えて! なにがそんなに辛いの? 苦しいの? お母さんに教えて! 言ってくれなきゃ、分からない事もあるの!」
涙が地面の草を濡らす。
そこから小さな光が生まれて、ゆっくりと歩美の目元まで昇ってきた。
ふわり、とその光が小さな人の姿に変わる。
「!」
金色の髪の、幼い少女。
黄色いワンピースと、黄色い靴。
ゆっくり開かれた瞳もまた金色。
歩美と目が合う。
すると、彼女は微笑んだ。
『ええ、ええ……信じるわ。マスターの声には真実しか乗っていないもの! 聖女のところにはあたちが案内する……』
「え、あ……あなたは?」
『名前がないの。だからマスターがあたちに名前を付けて?』
「な、名前? 私が?」
『そう! 早くぅ』
くね、くね、と身を左右に捻る小人。
いや、蝶のような羽根が見えるから妖精だろうか?
そんな事を言われても急には思い付かない。
金、コールド、さすがにそれはない。
では…………。
「コ、コール」
『コール? それがあたちの名前ね! コール! コール! 素敵! ありがとマスター!』
「マ、マスター?」
『さあ! 案内するわ、マスター! 聖女様はこっちよ!』
「!」
コールと名付けた妖精のような少女は、光を纏いながら進んでいく。
ざわざわしていた森は静まり返り、コールの放つ光がやけに眩しく輝いていた。
それに目を細めながら、歩美は一歩踏み出す。
今は彼女の言葉を信じるしかない。
(真美……)
娘が一人、悩み苦しんでいた。
その事に気が付かなかったのは確かに歩美の落ち度だろう。
一緒に生活している時間も少なかった。
夫が家にいつもいる状況なので、任せきりだったのだ。
でも、娘を——真美を愛している。
それは、変えようもない『ほんとう』だ。
真美が苦しんでいるのなら、その苦しみを分けて欲しい。
可能なら、代わってあげたい。
暗い森の中を、光に手を伸ばして進む。
「真美」
(私は自分が一番可愛いんだろうか?)
名前を呼びながら、自問自答してみた。
答えはあっさりと出る。
(私はどうなってもいいから、真美を助けて……)
涙が溢れた。
あの子が苦しんでいると思うと、とても苦しくて堪らない。
助けたいし、自分で助けられないなら助けてくれる誰かに助けてほしい。
どうか、どうか……。
「真美!」
木の間から強烈な光が漏れる。
それがあまりにも眩しくて、腕で顔を覆った。
少しずつ光に慣れ、ゆっくりと目を開くと大きな石がある。
その上に、膝を抱えて縮こまった真美。
「真美!」
「…………おかあ、さん……」
あまりにも憔悴した表情に、こんなに人を心配させて……という怒りも吹き飛んだ。
滑り台のような形の石に駆け上り、その上にいた真美を抱き締めた。
「……無事? 痛いところは? 怪我とかしてない?」
「…………うん」
「……そう……」
「……………………なんでお母さん、笑いながら泣いてるの……?」
「え?」
体を一度離して、真美が怪我をしていないか確認した。
その時に、真美に顔を覗かれたのだろう。
歩美は泣いていた。
ずっと涙が溢れていた。
止まらないのだから仕方ない。
「どうしたの?」「なにか辛いことがあったの?」「お母さんになんでも話して」……。
そんな言葉を、いくらでも掛けてやれたらと思いながら、上手い具合に言葉が出てこなかった。
歩美にはなにも出来ないと言われたら、それまでだ。
いや、そこから、なんとかしてくれる人を探そうとする事も出来るだろう。
けれどもしも……もしも『聖女なんてやりたくない。もう辞めたい』と言われたら?
一緒に死ぬ、と果たして歩美は言えるだろうか。
この、一ヶ月足らずしか生活していない世界の為に、愛しい娘と共に。
それが娘の為になるのか、それさえ分からない。
ただ死にたくないし、なにより真美に死んで欲しくない。
分からない。
頭がぐるぐると、様々な考えに支配されて混乱している。
ただ、それは悲しかった。
娘になんの相談もされない自分の情けなさも相俟って、涙が止まらない。
そして、真美が無事だった事。
その安堵も、涙には含まれた。
笑いながら、は、きっとその安堵からきたのだらう。
真美からすれば相当に気持ち悪い光景だったに違いない。
「……は、はは……真美が……真美が生きてて、無事で良かったなぁって……」
左手で涙を拭う。
鼻水も出ていたので、袖で拭った。
それでも次から次へと溢れてくる。
小さな声で「……お母さん、ずるい」と非難された。
顔を上げると、真美は盛大に表情を歪ませ、涙を堪えている。
「真美だって、ほんとは、真美だって……泣きたいのに……!」
「……真美……。……なにそれ、泣いていいよ?」
「…………っぅ……!」
ほら、と手を広げた。
決壊した涙が、あっという間に真美の顔をぐしゃぐしゃに濡らす。
飛び込んできた娘を抱き締めて、その髪を撫でながら、驚くほど熱くなった背中を撫でる。
こんなに大きな泣き声は、この子が生まれた時以来かましれない。
ぎゃあぎゃあ、と元気なその泣き声に場違いな笑みが浮かぶ。
この体温を、泣き声を……思い出す。
(……大きくなったなぁ……)
それからどのくらい泣いていたのか。
真美が泣き止む頃には、空はすっかり夜の色になっていた。
気温が下がった事で肌寒さを感じ、泣いた事でだいぶ体温も落ち着きを取り戻してきた真美の背中をもうひと撫でする。
胸の中に抱いたままの娘がぽつりぽつりと語り出す。
「聖女になんか、なりたくなかった……だってこわいもん。こわい。でも、でもお母さんもわたしも殺されるって……そんな事言われたら……わたし、やるしかないじゃん」
「うん、うん」
「あ母さんずっと泣きそうだし……わたしだって泣きたかった!」
「……ごめんね、不安にさせて」
「知らない人ばっかりだし! ……知らない人が、ずっとわたしの事見てるし! こわいよ! あんなのぉ!」
「うん、そうだね」
「顔笑ってても、絶対悪い事考えてる人、側にいるし……いやだあの人たち、きらい! きらいっ!」
「……悪い事……」
それはリュカやメイリアの言っていた『聖女を利用しようとする者たち』の事だろう。
こんな状況でも、自分たちだけは助かりたい。
安全な場所で、より甘い蜜を吸いたいと目論む者は少なくないのだと言う。
国王や聖殿長は、そんな者たちに頭を悩ませている。
そんな話を、最近は良く聞かされていた。
真美はそんな者たちを肌で感じていたのだろう。
それは、さぞや怖かったに違いない。
話に聞いただけでも恐ろしいと思うのだ。
真美の頭を撫で、大丈夫だよ、お母さんが守るから、と告げる。
真美は首を振った。
それがどんな意味合いなのかは言ってくれなかった。
ただ、一番は——……
「お父さんに会いたい……! お父さんの作ったご飯食べたい! お父さんとお話ししたいっ! お父さんと、一緒にご飯作ったりお買い物行ったり……また、したいよぉ! ……お父さんに、会いたいよおおぉっ!」
「…………」
お父さん。
歩美の、元旦那。
彼の存在が真美にとってどれほど大きかったのか。
「っ……お母さんで、ごめんね……」
異世界に、一緒に来たのが彼だったら——。
何度目か分からない、無意味な後悔。
彼ならもっと上手く立ち回ったり、真美を寂しがらせる事もなかっただろう。
食事だって、料理の腕は元々彼の方が上手い。
この世界の食材でも難なく真美を満足させられただろう。
またも笑うのに失敗した。
真美は胸の中。
失敗した笑顔を見せずに済んだ。
それでも胸はずきんずきんと痛む。
痛い。
痛いという言葉で表して済むものでもないほどに。
重く、滲むように。
それでいて引き裂かれるように。
「……ごめんね、ごめん。おかあさんで、がまん、してね……」
「……っうん」
十歳の娘は、賢い。
自分が叶いようもない我儘を言っている事をきっと理解している。
背中にしがみつく手のひら。
瞬く星が、夜空中に広がる頃にようやくよろよろと立ち上がった。
涙を拭うが目元はお互い真っ赤。
それでも、二人が帰る場所はあの場所しかない。
「……帰ろうか……お腹すいたね」
「うん……お腹すいた……」
「お母さん、明日からもっとお料理の勉強頑張るね……」
「うん、頑張って。期待はあんまりしてないけど……」
「あははは……」
がっくりと、うなだれそうになる。
しかし、ようやく「あんまり」という言葉を頂いた。
期待していない、から、少しだけ進歩したと思う。
「この世界の人のご飯よりは……お母さんのご飯の方が美味しいから……」
「…………っ……うん、すごい頑張る。めっちゃやる気出たもん。真美が褒めてくれたらお母さん、どんどんやる気もりもりになるよ〜」
「調子に乗らないでくださーい」
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