第7話 初めての異世界料理【前編】
「す、すみませーん」
「!」
振り返ったのは初老の女性だ。
頰の痩けた顔。
濃いグリーンの瞳の優しい顔立ち。
歩美を見ると、にこり、と微笑んで作業の手を止めて歩み寄ってきた。
「あらあらまあまあ、お客様? 今お茶をお淹れしましょうねぇ」
「あ、あの、ええと……は、初めまして、歩美と申します。……厨房をお借りしたいんですが……」
「? 珍しいお名前ね? 厨房を? ええ、構いませんわよ。よろしければ、お手伝いしましょうか?」
「……あ、えーと……」
はためく洗濯物。
その下にはカゴに入ったシーツらしきものが見える。
「…………。……て、手伝います。洗濯物を干し終わってからで平気なので」
「あらあらまあまあ……お客様に気を遣われてしまったわ。ふふふ、大丈夫よ。それでしたら少しお待ちになって。すぐに干してしまうわね」
「あ、いやあの!」
上品な奥様、という印象の女性だが、すたすたと洗濯物干し場に戻り、シーツを籠から持ち上げると竿に干していく。
逆に気を遣わせてしまった。
そして、恐らくあの女性がメイリアだろう。
考えを巡らせたあと、食堂を飛び出して渡り廊下の方へと駆けた。
「えっと……」
リュカを大声で呼ぼうとして、一瞬悩む。
しかし、すぐに「団長さーん」と呼び方を定めた。
ジェーロン団長、騎士団長、団長……色々迷ったが、今後はこう呼ぶ事にしよう、と。
別棟の扉を開けて、恐る恐る中へと足を踏み込む左右に扉があり、廊下の先に二階への階段がある。
その途中、柱を隔てた向こう側にもう一つ扉。
ここはなんの建物なのだろう。
そう悩みつつ、もう一度大声で「団長さーん」と呼んでみる。
「アユミ様! どうかされましたか!」
「わっ」
二階の階段からどだだ、と派手な音を立ててリュカが降りてきた。
その焦った顔に一瞬笑いそうになる。
しかし、真剣に心配されておいてそれはないだろうと咳払いでごまかした。
「あ、あの、庭の方に女の方がいて……」
「え? ああ、庭の方でしたか。……分かりました、参りましょう」
「はい」
カウンターから野菜の箱を回収し、食堂へ向かう。
厨房に箱を置き、厨房の隅にあった裏口から二人で庭へと出た。
寮に比べると少し小さい一階建ての建物がある。
「あれは?」
「ああ、大浴場です。小隊副隊長以下はあそこで体を洗います」
「へ、へえ、広い、ですよね?」
「はい。以前は城の使用人が掃除に来ていたんですが、最近は最初の風呂のグループが毎日場所を手分けして掃除していますね……」
「ええっ! た、大変じゃあないですか」
「大変ですが、メイリア一人ではとても行き届きませんから」
「っ! メイリアさん一人で全部切り盛りしてるんですかっ!? ここを!?」
つい、大きな声で聞き返してしまった。
さすがに困った笑顔を向けられてしまう。
しかし、一国の騎士団の寮をたった一人で……それもあんな初老の痩せた女性が、とは。
「……食糧難で多くの使用人は実家に帰り、生産の方に回っているのです。金があっても食べ物がなければ買えませんからね。……騎士団の方でもかなり人手が生産に流れました。騎士経験のある者ならば、ある程度魔物と戦えますから農村地帯で畑を耕しながら村の護衛をした方が食べていけるのです」
「…………!」
「あとは聖殿と王族のお世話をする、血筋の良い貴族の出の者たちしか城には残っておりません。こんなになるまで『聖女召喚』は失敗続きで……」
ふと、リュカが言葉を飲む。
推し量る事は少し難しい。
彼は寂しげに微笑んでいたからだ。
「…………ようやく来てくださった聖女様なのですよ……」
「……………………」
風が通り過ぎて、リュカに注ぐ木漏れ日もまた揺れた。
娘の事を案じ、想っているのは、別におかしな事ではない。
しかし、本当に歩美が思っている以上に……この国は困窮している。
考えたくはないが、騎士が農村地帯へ畑を耕し、魔物から村を守る為に騎士団からいなくなるほどという事は——。
(人が……たくさん……死んで、いる?)
生唾を飲み込む。
あまりにも考えたくない。
しかしリュカのあの表情の裏側に抱えられたものは、決して軽くはないだろう。
「あ、時間がなくなってしまいますね。メイリアに会いに行きましょう」
「…………すみません……」
「はい?」
「……その、なんか……」
「アユミ様たちは異世界から来たのですから……知らないのは仕方がないです。……むしろ、誘拐のような事になり……」
「い、いえ」
この世界に来る直前の事を思い出す。
気が付いたら眼前に迫っていた車。
虚無のような瞳の運転手。
あのままなら、間違いなく死んでいる。
だから、召喚された事は恐らく『救われた』と思うべきなのだろう。
それと娘が危険な目に遭うかもしれないという心配事は、やはり別物ではあるが……。
「……メイリア!」
「あらあら、お帰りなさいリュカ。今日はとっても早かったわねぇ」
「ではなく」
洗濯物干し場に行くと、のほほんとした声と笑顔。
リュカが小走りで彼女に近付くと、足元にあった籠からシーツを取り上げてさっさと竿に干していく。
空になった籠を持ち上げて「あとは俺がするから、母さんは彼女の相手をしてくれないか」と話す。
その表情は複雑そうな息子そのもの。
「ん〜? よく分からないけれど……なぁに、お前の恋人を連れてきたとかではないの?」
「ち、違うから」
「い、いえいえ!」
「あらあらまあまあ。それならどんなご用件なのかしら?」
「あ、あのですね……」
「彼女は聖女様のお母様なんだが、聖女様の世界の料理を作りたいんだそうだ。聖女様はまだ幼くてらっしゃるから、故郷の味が恋しいのだと思う。手伝ってやってほしい」
「…………」
本当は——……『元夫』の料理。
それを思い出して肩が落ちる。
確かに、彼の作るものはとても美味しかった。
朝は簡単だけどしっかり腹持ちするもの。
お弁当も毎日彩と栄養を考えたもの。
夕飯も二つ以上のおかずが常だった。
同じ事が自分に出来るか考えた時、即答で『無理!』と答えが出せる。
それをこれから真似るというのだから、我ながら無謀だ、と頭を抱えた。
「アユミ様?」
「あ、大丈夫です。えーと、か、構わないでしょうか? その、厨房をお借りしても」
「そう、娘さんの為なのね……。ええもちろんですわ。わたくしで良ければいくらでもお手伝いします。リュカ、貴方は仕事に戻りなさいな」
「俺は彼女の護衛だ。……厨房を使っている間は寮の仕事をしているよ。なにかやる事はあるか?」
「自分の仕事をなさい」
「…………」
にっこり。
大変穏やかだが、声色が有無を言わさぬものだった。
それこそ、大の男が頰を引きつらせ、とても小さな声で「……ハイ……」と返事をするぐらい。
「……で、では、その、俺は自室で書類の整理をしてくる」
「そうなさい。報告書に目を通していないのでしょう? 魔物の目撃情報もあるのですから、しっかりと漏らす事なく頭に叩き込むのですよ」
「はい……」
「ええと、アユミ様だったかしら? それで、わたくしはなにをお手伝いしたら良いかしら?」
「は……はい、えーと……」
すごすごと厨房を通り、食堂から出ていくリュカの背中を見送ってから微笑む女性……メイリアを振り返る。
なにを手伝ってほしい、と聞かれると……。
「えーと、その……りょ、料理を」
「ええ」
「………………教えてください……」
「……あらあらまあまあ」
頰に手を当てて、微笑むメイリア。
そこからは洗いざらい。
歩美と元夫、そして娘、真美とのこれまでの関係、食生活を……吐いた。
「そうなの〜」
と、頰に手を当てたまま大変穏やかに優しく言ってくれたが、そのあとストレートに「それは困ったわね」と付け加えられてますます縮こまる。
更に「わたくしはあなた方の世界のお料理は分からないしぃ」と言われてしまうと、まあ、その通りだ。
「まあ、でも出来る限りやってみましょう。ええと、わたくしがアユミ様の指示でお料理を作れば良いのかしらね? それなら」
「え、い、いえ! 私も作ります! 娘の為なので!」
「ふふふ、そうねぇ。お母さんですもの、当然よねぇ。ええ、良いわ、分かりました。でも無理は禁物よ? 良い?」
「え? あ、はい!」
「そちらの世界とは厨房も違うでしょうから、一緒に頑張ってみましょう」
「は、はい。ありがとうございます……」
「良いのよ。世界が違っても、やっぱり我が子が可愛い母心は同じよねぇ」
「……そうですね」
なんだかそう言われて、心が温まる。
どこか安堵にも似た気持ち。
とても不思議な感覚だった。
(……あ、そうか……私、無意識にこの世界の人を……ものすごく警戒してて、人として思ってなかったというか……うん、なんか、ひどい事されるものだとずっと思ってたんだ。……でも……この人は……同じ、母親なんだ……きっと、他の人たちも……私たちとなにも変わらない……)
それが分かって、心の中でなにかがカチリとはまった気がした。
そう、この世界の人たちも……『人間』なのだ。
文化や歴史、聖霊による魔法のような力を持っていても。
それが今、心のなかに染み込むように理解出来た。
「じゃあなにから始めようかしら。食材もやっぱりだいぶ違うの?」
「はい、そうですね……。見た事のあるものは……ないです。それに、料理も……」
「そう。食文化の違いは確かにストレスになってしまいそうねぇ……。でも、食材が違うのでは同じものは難しいかもしれないわ〜」
「そ、そうですよね……えっと、なのでサラダを作ろうかと……」
「サラダ?」
「えーと、葉物野菜をちぎってドレッシングで食べるアレです」
野菜の回の時に必ず出る。
普通に『サラダ』と認識していたがこの世界では別の名前の料理なのだろうか。
慌てて特徴を言うと、メイリアは「ああ、フェタスの事ね」と笑顔で頷いた。
「フェタスというんですか」
「そうよ。葉物野菜を水で洗って、リードというドレッシングをかけて食べるの。ワンタという葉物野菜は基本的にちぎろうとすると暴れるから、まずはお湯で湯がかなくてはダメね」
「はい?」
なんて?
途中までは理解出来たが、最後の方は思いも寄らなくて聞き返した。
暴れる?
なにが?
「え? アユミ様の世界のワンタは暴れないのかしら?」
「え? いや、野菜の話、ですよね?」
「そうよ。野菜の話よ?」
「え?」
「え?」
「「え? ……………………」」
顔を見合わせた。
そして、一拍の間。
「…………この世界の野菜は、生きてるんですか?」
「ええと、そうねぇ、それに近い感じ? かしら。野菜も家畜のように食べられたくはないんじゃない? 生きてるんだもの〜。全力で抵抗してくるわよ〜?」
「……!?」
「アユミ様の世界は違うの?」
「あ、歩美で結構です……」
「そう? じゃあアユミちゃんの世界は違うのかしら?」
「はい……!」
あまりの混乱で一瞬なにかよく分からない事を言った気もするが、問題はそこではない。
野菜が、生きている。
しかも、料理しようとすると暴れる……らしい。
しかし、それならば先ほどの城の厨房の怒号と恐ろしいまでの圧の理由が分かる気がした。
「野菜は普通、暴れません!」
「あらあらまあまあ……じゃあこの世界ではとっても大変かもしれないわね〜。どうなさる? 今日は野菜の倒し方だけ覚えて、お料理は次回にするかしら?」
「……た、倒し方……!」
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