第12話 だけど、レン・レヴェントンという少年は、ひどく気高いのだ。
「それ……昨日のオルカ姉……関係ある……?」
「……えと…………はい」
困ったように笑いながら、またしても頷くレン。
(やっぱりか~……)
昨日の顛末は、ベルが話してくれた。帰ってきたオルカが死にそうなほど落ち込んでいたから、さすがに気になって事情を聞いたのだ。
「ん~とね…………うーん……」
どうしたものか、すこし悩む。
『実はオルカ姉はレン君にベタ惚れで……でもヘタレだから素直に気持ちを言えなくて……そのせいで変な態度になっちゃってるだけなんだー……』
なんて、言っていいのだろうか。
(……駄目な気がする。だって……これは……オルカ姉が自分で解決しなきゃいけないことだ)
オルカが想いを遂げるには、いつかは当の本人が腹をくくって、レンと真正面から向き合わなければならない。
姉にそれがまだできそうもない今、周りの自分たちが気を回して事態を進めようとするのは、よくない気がする。すくなくとも自分の勘はそう言っている。
(でも……ここでなにも言わないのは違うよね……ん~と……」
頭を働かせて、言うべきであろうことをナーファルは絞り出した。
「……あのね……オルカ姉って……この街に来てからちょっと性格が変わったんだ」
「……そうなんですか? オルカさんが?」
「うん……。前はね……なんて言うんだろう……」
この街へ来る前のオルカを――レンに会う前のオルカを、ナーファルは思い返す。
なによりも、今と違うのはその瞳。
美しいあの姉の、ひどくさみしい色に染まった、瞳。
「あのね…………私とかベル姉とかには優しかったけど……オルカ姉は…………それ以外の人とかものには……全然興味がなかったの」
「……興味が、なかった?」
「うん……。執着しないっていうか……なんでもいいっていうか………………どうでもいいっていうか」
昔から、オルカは自分たち妹にとても優しかった。
怒られたことも叱られたこともあるけれど、その裏にある揺るぎない愛情を、ナーファルは一度も疑ったことがない。
しかし、自分たち妹と、三姉妹の親代わりだった存在、このふたつ以外に対して、オルカはまったく興味や執着を示さなかった。
その金色の瞳はいつも鈍くくすんで、どんな陽光の下でだって明るく輝くことはなく。
身内以外の世界すべてに対して、つまらなさそうな視線を投げていた。
「……たぶんオルカ姉は……仕方なく生きてくれていたんだと思う。……私とベル姉を守るために」
おおげさに言っているわけじゃない。これは、きっと正確な事実だ。
生まれ持っての性質あってのことだったのか、長女としての責任あってのことだったのかはわからないけれど。
自分たち妹ふたりを守るためだけに、オルカは生きることを選択し続けてくれていた。
それがなければとうの昔に、自分で命を絶っていたのだと思う。
かつてのオルカ・スクーデリアの瞳は、間違いなくそういう類いのものだった。
「私は……それが悲しかった」
空を見上げながら、ナーファルはつぶやく。
「オルカ姉が生きてくれているのは嬉しかったけど……楽しそうじゃなかったから……。私とベル姉には笑ってくれるけど……空の青さも風の優しさも……木の葉の話し声もお日様の匂いも……オルカ姉には響いてなくて……」
ナーファルは、この世界を生きるのが楽しかった。怖いことも嫌なことも山ほどあるけれど、それ以上に素敵なものがたくさんある。
だけど、オルカにとってはそうではなかった。
「嫌々付き合わせちゃってるよねって……ごめんなさいって……ずっと思ってた……」
視線を、空から隣のレンに戻す。彼は真剣に、じっとこちらの話を聞いてくれている。
「……だから……私ね…………すごく…………すごく」
君に、感謝してるんだ。
その言葉は、言わずに飲み込んだ。そうしてしまったら、オルカの気持ちを伝えることになるから。それは自分がすべきことじゃない。
「ナーファルさん?」
「…………ん~ん……なんでも」
笑ってごまかしながら、ナーファルは思う。
(……毎晩……お祈りしていてよかったな)
改めて、今、そんな風に思える。
『どうか現れてくれますように……』
それは、ナーファルの日課だったのだ。
『オルカ姉に……この世界の楽しさを教えてくれるなにかが……誰かが……どうか現れてくれますように……』
そんな奇蹟が、どうか起こってくれますように。
毎晩、眠る前に祈っていた。もうずっと昔から、十年以上も前からだ。
毎日毎日、毎晩毎晩祈り続けて。
そして今、ナーファルの隣にこの少年がいる。
「……今の話は全部……この街に来る前のこと……。オルカ姉は……もう違う。毎日……いろんなことに驚いて……いろんなことに騒いだりして…………楽しそうだよ」
「……この街に来て、ですか?」
「うん……」
「すごくいい街だとは思ってますけど、……う~ん、……人生観が変わるような、そんなに印象的なものとかは……。マスターのおいしいご飯とか? う~ん……」
レンは首を傾げている。オルカを変えた要因がなんなのか、当の本人はわかっていないらしい。
オルカの態度があれなのだ、当然だろう。
「……ひとつ……お願いがあるの……レン君」
「はい、なんですか?」
「……オルカ姉にはね……レン君からは見えてない……ないしょの顔があるの」
「ないしょの顔が」
「そう……。ないしょの……悪い顔が……。オルカ姉は……実はとても悪い女……」
「そ、そんな……! オルカさんが……そんなはず……!」
「うそうそ……冗談……」
ベルならば「悪いだろ、気味が悪い」なんて言いそうだけど。
どんな時に気味が悪いかといえば、もちろんレンを遠くから見ている時などである。
「でも……ないしょの顔があるのはほんと……。だから……よかったら…………もうちょっと……オルカ姉と話してみてくれないかな」
妹にできる援護射撃はこのくらいだろう。あとは本人のがんばり次第である。
「……あの、ナーファルさん」
レンから硬い声が鳴る。断られるだろうか、思わずナーファルも身を硬くして。
「…………僕、オルカさんに、その……嫌われていたり、するんじゃないのかなって」
泣き出しそうなところへ力ずくで笑みをかぶせたら、こんな顔になるのだろう。レンの浮かべた表情に、ナーファルは唇を噛む。
「オルカさんには助けていただいてばかりで……。ご面倒ばかりかけて、そのくせ、なにも返せていなくて……。オルカさんからしたら、僕に話しかけられるって、……ご迷惑なだけかなって」
「……それだけは……ないから」
ずっと握ったままの彼の手を、今日で一番、ぎゅっと包む。
「それだけは……絶対にないから」
信じてくれたのかどうか、レンが浮かべた微笑みからは読み取れなかった。
(…………オルカ姉)
オルカがどうしてああも不器用な態度を取ってしまっているのか、その理由を、ナーファルはよくわかっている。
あの姉は、とにかく慣れていないのだ。身内ではない相手へ強い執着を覚えてしまうことに、慣れていない。
だから臆病になって、相手に迷惑じゃないかなんてこともさんざ考えてしまって、結果があの態度だ。
それはわかっている。わかっているのだけど。
(……いい加減……ちゃんとしないと…………――本当にとっちゃうぞ)
自分なら、この子にさっきみたいな顔はさせない。……なんてことを、すこしだけ思ってしまう。それがナーファルの本音だ。
十年以上祈り続けた、ナーファルの願いは叶った。
だけどまさか、姉の心を奪ってくれた念願の存在を、自分まで好きになってしまうなんてことは、想定していなかった。
「……とにかく、僕がまだまだ未熟なのはたしかなんです。もっといい歌を歌えるようにならないと」
レンはそう言って、気合いを入れるように表情を引き締めた。
ナーファルは、彼のこういうところが好きだった。自分に妥協を許さない、一言で言えば、その気高さが好きだ。
酒場でウエイターとして働くときも、ステージに立って歌っているときも、ひとりで曲を作っているときも、いつもそう。
彼には一本、揺るがない芯が通っているように見える。自らの定めたそれに、必ずや従って生きるのだという、強い覚悟が見える。
見た目は大人しそうで、表情も柔和で、言葉遣いも丁寧で。
だけど、レン・レヴェントンという少年は、ひどく気高いのだ。
そのまぶしさに、ナーファルは惹かれてしまって。
「…………あ」
ぐ~と、レンのお腹から音が鳴った。
「す、すいません……。そういえば、そろそろお昼ですね……あはは……」
(あ~……もう……)
ごまかすようにふにゃりと笑うレンの笑顔は、ナーファルの胸を締め付けてくる。
(反則だ……反則……)
凜々しい気高さと、かわいらしい隙。その合わせ技は反則だろうと思う。
この四つ年下の少年はそうやって、ナーファルの心もさらっていったのだ。
姉のものだけで、よかったのに。
「……レン君は……今日のお昼……どうするの?」
「お店に戻って食べます。マスターが試作品を兼ねたまかないを作ってくださっているはずなので」
「そっか」
彼の働く酒場は、夜だけの商売だ。日が出ている間はずっと準備中である。
「じゃあお店に新メニューが増えるんだ……楽しみ……」
「あ、いえ、お店で出す用じゃなくて。もうすぐ街のお祭りがあるので、その出店で出すためのものです」
「あ……なるほど……。そっか……お祭り……去年もこの時期やってたね……」
「はい。とくに今年はお祭りが始まって二百年の節目らしくて、いつもより盛大にやるみたいですよ」
「へえ~……それはいいね……」
静かな時間も好きだけど、賑やかな空間も楽しい。今から待ち遠しい気持ちだ。
「いつなんだっけ……?」
「二十日後ですね。それから三日間です。例年は二日間開催なんですが、今年は特別だから一日増えたらしくて。…………あ、そうだ。……じゃあ、その、ですね」
レンはすこし躊躇してから、言葉を絞り出すようにして放った。
「あの……一日目と二日目は僕もいろいろお仕事ありそうなんですけど、最後の三日目は、そんなにやることもなくて、……マスターからも、その日は祭りを回ってこいって言ってもらえてて……。……えと、なので」
「……うん」
「その日、……もしよければ一緒に回りませんかって、オルカさんを誘ってみたいと思います……! ご、ご迷惑でなければ、ですが……!」
もうすこしオルカと話してみてほしい、そう言ったのは自分である。彼は、それに応えようとしてくれているのだ。
「そっか……。うん……いいと思う。ありがとう」
とても嬉しい。ふたりの仲が深まる方向へ進んでくれたらいいと思う。
だから、胸の痛みは無視する方向でいきたい。
「……レン君……でも……いきなりお祭りに誘うのは……ちょっと勇気が必要?」
「う、そ、そうですね……」
「だったら……さ――」
自分の気持ちを振り切るためにも、ナーファルは姉への援護を追加することにした。
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