第2話 い、……いくつ下だと、思ってるのよ……
「やっぱり、ここのお酒と料理は素敵ね――か。へえ~、そうなんだぁ姉貴。そんなにここの酒と飯が好みかあ。いやあ美味いよ、アタシも文句ねえよ。けどさあ、ふ~ん」
「おかげで毎日つい来ちゃうわ――だって。そうだったんだねえ……。オルカ姉が……毎日毎日毎日毎日……ここに通うのは……そういう理由なんだ……」
そうですかそうですかそうなんですかぁ。そんな風にナーファルとベル、二人の妹が投げてくるのは、呆れを目いっぱいに含ませた声。
三姉妹の長女、オルカ・スクーデリアには、なにも言い返す言葉がなかった。
「………………ほら、そろそろ歌も始まるから、ね?」
ようやく絞り出した言葉は、我ながら情けなくなってくるほどの見苦しいごまかし。
なにが『ね?』だ。自分でも意味がわからない。
「……なあ姉貴、アタシは思うんだけどよ」
「……なにかしら」
ベルに頷きながらも、ついついオルカの視線が向くのは別の場所。
そこにいるのは一人の少年。鍵盤楽器の前に立ち、店の客に向かってあらためて頭を下げている。
客の誰かが冗談を言って、場が騒がしく盛り上がった。それに隠れるようにして、声を潜めたベルが言う。
「アタシらがこの街に来て、レンに会ってからもう一年以上経つぜ。いい加減、腹くくって突撃しちまえよ」
「………………だ、だって!」
レン・レヴェントン。酒場で働く、礼儀正しい男の子。
いつも仕事に一生懸命で、にっこりと笑う顔は無垢で、だけど時々驚くほど大人の顔で遠くを見つめて――そして、魂そのものから音を出すように歌う少年。
「い、……いくつ下だと、思ってるのよ……」
「なんだよ、きっちりと再確認しとくか? 姉貴の一つ下がアタシで、アタシの一つ下がナーファルで」
わざわざ指折り確認していくベル。
なお、オルカは二十歳だ。ベルが十九歳でナーファルが十八歳。少々めずらしい、年子の三姉妹。
「ナーファルの……たしか四つ下だっけか、レンは。だから姉貴から見りゃ六つ下だな」
「別に……大した差じゃないと思う……六つくらい」
ベルにそう続いたナーファルは、マイペースに食事を進めている。
「で、でも、たとえば三十歳と二十四歳だったらなんでもないけど、二十歳と十四歳は、ちょっと……アレなんじゃ……。そ、それに、男性は、年下が好きだって聞くし……」
歯切れ悪く言ったオルカに、ナーファルはパンをかじって咀嚼し飲み込んでから、表情を変えずに返す。
「人によるんじゃないの……そんなの……。オルカ姉がこのままもたもたしてるなら……私……レン君とっちゃうけど……いい? 私はレン君と……四つしか違わないし……」
「……え。え!? ナーファル、それ、え、冗談、よね?」
「だと……思う?」
「え、え、…………え」
ナーファルの言葉は本気と冗談が見分けにくい。
思わずオルカの両手はフラフラと宙をさまようが、なにを掴めるわけでもない。
「それが嫌なら……もにょもにょ言ってないで……頑張ったら?」
「う、……うう」
完全にド正論。やっつけられ、オルカはうつむくしかなくて。
「っあ」
だが、すぐに顔を上げる。弾かれたような勢いで、小さく声をこぼしながら。
だって、鍵盤楽器の音色が響き始めたのだ。
レンがピンと背筋の伸びた姿勢で楽器の前に座り、鍵盤の上で手を踊らせている。
呆れたようにベルが首を振りながらため息を吐いたが、オルカの意識のピントはもう、あの少年に固定されて動かない。動かせない。
そして、ついにオルカの耳へとそれが届く。
「“前が見えない恐ろしさ わかってはいるつもりでも”」
矢のようにまっすぐで、冬空のように透き通って。
「“ただ暗闇を突っ切っていく わずかな灯もない場所を”」
しかし、線の細さとはまるで無縁。
美しいのに力強く。甘やかながら、ひどく鋭い。
「“それしか知らない愚かさが”」
(……ああ)
オルカ・スクーデリアの心に、世界で一番響いて届く。
「“唯一持ってる僕の武器”」
とても素敵な、それは歌声。六つ年下の男の子、レン・レヴェントンの歌声。
「“まぶしさに慣れてしまったら 次の暗闇は走れない”」
ベル、ナーファルの妹ふたりと一緒に、オルカは今までたくさんの街を巡ってきた。
街には必ず酒場があって、そこには大抵、声鳴らしがいる。だから、男女問わずいろいろな声鳴らしの歌を聴いてきた。
(でも、……悪いけど)
比べ物にならない。それが正直なところだ。
いつも賑やかなベルが、声ひとつ漏らさない。
マイペースなナーファルが、食事を一口だって進めない。
「“わかってる”」
酒場の他の客もみんな、同じだ。レンの歌声に意識を吸い込まれ、他のことをする余裕がない。
「“ここにすべてがあったって”」
オルカたち三姉妹は過去にたった一度だけ、≪うたうたい≫の歌を聴いた経験もある。まさしく圧倒的、神秘性さえ感じたそれは、確かにあまりに特別だった。
「“止まる理由にできなくて”」
だけどはたして、今この耳に、胸に、心に届くこの歌を、凌ぐものだったろうか。
(……すくなくとも、私にとっては)
そうでは、なかった。はっきり言い切れる。
「“剥がれて離れるそのときに”」
レン・レヴェントンこそが一番だ。
彼の歌を初めて聴いた時、頭をハンマーで思い切り殴られたような衝撃があった。その余韻は、痺れは、未だなおオルカの中に残っている……不思議に甘く。
「“さよならひとつじゃ足りないんだ”」
自分は今、世界で一番の歌を聴いている。オルカは誇張なく、そう思っている。
「“僕はなにかを差し出すだろう”」
鍵盤楽器の音色を相方に、歌は続いていく。
一音一音が心をこんなにも揺らすのに、過ぎる時間はあっという間。
やがて、レンの歌はこちらの胸に余韻をたっぷり残しながら止み、鍵盤楽器の音が最後を飾って。
曲が終わった。
そしてそれは、彼の歌よりもなお、オルカの心を一番強く引き込む瞬間がそろそろ訪れることを意味する。
(ああ、くる……)
曲の終わりから一拍二拍、たっぷり三拍ほど待って、
「今日も絶好調だね~!」「疲れが吹き飛ぶよほんとさあ!」「最高! いやあ、ほんとこの店は最高!」「何回聴いてもいいんだよなあ……」
客の皆から盛大な歓声と拍手が飛び。
「――――……」
まるで、身体に降ろしていたなにかが抜けている最中かのように。
あるいは、外に放出してしまっていた自分のすべてをまた仕舞い直している最中かのように、ぼうっと呆けていたレン。
彼の意識が、この場所に戻ってくるのがわかる。瞳の焦点が合って、仕草にいつもの礼儀正しさが宿る。
そして彼は、客の皆に視線を向けて――ふにゃりと笑った。温かく、柔らかく、幸せそのものみたいに。
(…………ああ)
なによりも、なによりも、さっきまで堪能していた世界一の歌よりもなお、オルカはレンのあの表情が好きだった。
見る度、背中に稲妻が走る。胸の中ではわけのわからない衝動が暴れて、やがて全身が痺れともどかしさで満ちる。
この感情は、どんな言葉で表現すればいいのだろうか……なんて、悩む必要はあるのかどうか。
「お~お~、レンのヤツ、人気だねえ」
年齢も男女も問わず様々な層から声援を受けるレン。彼を見て、テーブルに頬杖を突きながらベルが言う。
「なあ姉貴、さっきのナーファルじゃねえけどさ、誰かにコナ掛けられたってそんなにおかしくねえわけだろ、あいつ。今この場にはいねえけど、街にゃあ同年代だっているわけだし」
「……うん」
「いいのかよ、とられちまっても」
「…………うぅ」
小さく低くオルカが呻けば、ベルはため息を吐いた。
「あのなあ……せめて、もうちょい距離感縮めて話すとかできねえの? なんかいっつも妙に素っ気ねえ態度してっけど。あれなんなんだ、カッコつけてんの?」
「そ、そんなわけないじゃない! だって、ああでもしないと、……ほんとに、まともに喋れそうにないっていうか……だから、仮面を被ってるっていうか……」
そう、仮面だ。『きちんとした大人の女』という仮面。
素のままでレンと話をするのは、オルカにとっては難しい。
「だって普通に喋ったら絶対、顔とか真っ赤になるし……! 絶対、声とか震えるし……! 絶対、わけわかんないこと言っちゃうし……! ……二十歳の女に、そんな、挙動不審な真似されたら、十四歳の男の子って、たぶん、……普通に……」
「引くかもな! そりゃそうだ! あっははははは!」
「笑いごとじゃないのよ!」
笑い続けるベルの肩を掴んでガクンガクンと揺する。
「いいなああああベルはあああ……! レン君とあんな風に仲良く喋れてえええ……!」
「アタシにとっちゃ普通に、歌のめっちゃ上手いガキってだけだからな~。つうか、レンと飯食いに行くってなったらできる限り姉貴のことも誘ってやってんだろが」
「それはほんとのほんとにありがとおおおお…………!」
とてもありがたい。情けないのは、その気配りをまったく活かせない自分である。
「ふたりとも……静かにして……。そろそろ……次の曲……やるみたいだから」
「っごめん、ありがとうナーファル、その通りね」
オルカとベルは上がっていた声のボリュームを絞り、視線をまたレンへと向ける。
「次はなんだ~? アタシの好きなヤツ演ってくれっかな~」
ベルがそんな風に零し、そしてやがて、二曲目が始まった。
結局、この日レンは計五曲を演奏した。その中には、ベルがとりわけ好む一曲も含まれており。
(……いいなあ、なんて言えないか)
だって自分は、どの曲が好きだってことさえ伝えられていないのだ。
改めてレンとの間に空いている――空けてしまっている距離を思って、オルカはため息を吐いた。
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