十九


 えっ、と腕の中で藤堂君が呟いたのが判った。それでも腕を緩めずに、縋るように言葉を続けた。


「離れたくない」


 お願いだから、と心の中で呟く。


 僕を、過去の人間だなんて言わないで。


「ずっと一緒にいたい」


 今まで誰にも言えなかった言葉を、口にする。


 雅臣にも、先輩にも、他の誰にも言う事さえしなかった言葉だ。でも彼なら、藤堂君なら、それを受けとめてくれる気がした。


 本当に僕を、好きになってくれるかもしれない。


 彼と安永君の話を聞いて、自然とそう思えた。


「でも先生。俺達、住む世界が……違うよ」


 掠れた声で小さく藤堂君が答える。


「住む世界って何?」


 そんな訳の解らない理由では、納得出来ない。


「……この前母さんがあいつに殴られた時。俺、思い知らされた。先生はさ、俺達みたいな薄暗い世界の人間と付き合ってちゃ駄目な人だよ。綺麗な靴履いてさ、いつでも真っ直ぐ立って、いつまでも俺の理想の人でいてよ」


 彼が否定の言葉を吐き出す度に、腕に力を込める。抵抗しない彼は、黙って僕の腕の中にいた。


「――君が好き」


 耳に直接囁けば、ピクリと体が震える。そして、初めて抵抗らしい素振りを見せた。


「だって先生、あいつの事が……」


 気持ち悪い以外の何物でもない、と言った時と同じ、嫌悪を伴った声を吐き出す。


 胸を押してくる手に耐えきれず、手を離した。勢いに任せて自らネクタイを外し、彼の前でボタンに手を掛ける。


「えっ? あの――」


 驚く彼に、「自分で確かめて」とシャツの前を肌蹴た。


「誓うよ。彼とは2度としない」


 断言すると、『あの場所』を凝視していた目が、ゆっくりと眇められる。


 それから泣きそうに顔を歪めて、顔を伏せた。


「なら。もう――」


 小さな呟きと共に、彼の指先が僕の胸を辿る。そうして唇が、這わされた。


「……もう、他の奴とはしないで」


 彼の吐息が熱い。舌でペロリとあの場所を舐めると、鎖骨のすぐ上に唇を寄せた。


「俺以外の誰とも、こんな事はしないで」


「――あっ……」


 痺れるような痛みに、思わず声が洩れる。


 唇を離した彼は満足げに微笑んで、僕を上目遣いで見上げた。


「……なあ。キスした事ある?」


 その台詞にドキリとする。目を見開いてから、僕の真似をしたのだと気が付いた。


 軽く睨むと、悪戯にペロリと舌を出す。その隙を見逃さず、口付けた。


 顎を持ち上げ、舌を絡み取る。苦しそうに洩れた声を無視して、反らされた首筋を掌で撫でた。


「……んっ…」


 そのまま肩をなぞって鎖骨に辿り着くと、彼の体が震える。胸に下りていこうとする手首を、掴まれた。


「……もう、ダメだ」


 零れた唾液を手の甲で拭い、肩で息をしながら言う。


「これ以上したら、立ってらんない」


 僕の肩を両手で掴んで、俯いた。深く吐き出す息はまるで溜め息のようで、僕の行為に呆れているかのようだった。


「おいで」


 彼の手を引いて、廊下に上がる。靴を履いたままだった彼は、つんのめるようにして慌てて靴を脱いだ。


「あっ」


 散らかった靴が気になるのだろう。振り返り、戻る素振りを見せたが許さなかった。


 リビングに入って、隣接している寝室のドアを開けた。電気を点け、ようやく彼の手を離す。


 彼の視線は当然ベッドに注がれていて、引きつった顔のまま、固まっていた。


 上着を脱いで、彼を抱き寄せる。密着するように背と腰に手を回すと、正直、こうしているだけでも満足かもなと思えるようになってきた。


 今までは、こんな風に抱き寄せられる相手すら、いなかったんだから。そんな事、許されなかったんだから――。


「……先生……」


「うん、いいよ。今日は止めとこう」


「えぇっ?」


「え?」


 訊き返してくる声が不満そうで、思わず手を緩める。見つめ合うと、呆然としていた彼の頬に朱が走って、思わず笑みが零れた。


「なんだよ、もうっ」


 そっぽを向くのがかわいくて、もう1度腕の中に収める。


「ごめん。どうしようか?」


 問うと、彼は初めて自分から僕の背に手を回してくれた。


「――電気、消してくれたら」


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