十二
驚いて顔を上げると、開いたままのドアに凭れるようにして、先輩が立っていた。
「また、あの子か」
怒ったような声。ゆっくりと近付いて来ながら、低く言葉を吐き出した。
「――前に1度。智恵子から指摘された事がある。『クセがある』って」
「…………」
なんの話か、解らなかった。
只、ゆっくりと近付いて来る先輩がなんだか怖くて、僅かに後ろへとさがってしまう。
「お前を見てると、浮かぶ記憶があるんだ」
「……なんですか?」
「ずっと、変な夢を見たと思ってた」
すぐ間近に迫った先輩に、背中がロッカーへとぶつかる。
――まさか。
「……まさか……そんな、事」
「残っていなかったか、ここに」
吐息のように、掠れた声。
2本の指先が、鎖骨の下を辿る。
――赤い痕があった場所。
藤堂君の指先が触れた、あの場所。
声も出せないでいる僕の首筋に、先輩の掌が撫でるように触れる。更に近付いて来る先輩を、拒めなかった。
重なった唇は1度離れ、あの日と同じですぐに激しさを増す。
「……先、輩ッ……」
ソファへと押し付けられながら、形ばかりの抵抗をする。自分でも判る程、押し返す腕には力が入っていなかった。
「俺はきっと、嫉妬してるんだ。あの子に」
首筋を辿る唇が、熱い息と共に言葉を吐き出す。
「……あ、あぁ……」
なんで今更、と思わずにはいられなかった。
僕はずっと、大学時代からずっと、あなたを見つめていたのに。雅臣を忘れさせてくれたのは、あなただったのに。
そのあなたを忘れさせてくれそうな藤堂君が現れたのに、なぜ今頃、そんな事を言うんですか。
僕の知らない女性と、結婚したのに。『智恵子』と、僕の前でも平気で名前を呼ぶクセに。
僕を、裏切ったのに。まるで見せ付けるように、僕の前で仲良くしていたクセに。
先輩と雅臣への想いが交錯する。
――藤堂君、助けて。
僕が握り締めたままでいるスマホを、先輩が向かいのソファへと放った。
「今は、俺を見ろ」
数日前までは、夢のようだった台詞。そして、嬉しかっただろう台詞。
白衣のボタンが外されていく。そのすぐ後を、唇が追った。
微かな痛みを感じた肌に、先輩の背中へとしがみ付く。
「……んっ……」
2度目の行為は、すぐにお互いの熱を高め合ってしまう。
はぁっ、と吐き出される先輩の熱い息を感じて、更に体温が上がった。
「あっ…ああっ……」
円を描くように下半身へと降りていく掌に、ゾクゾクと体が総毛立つ。
「……先っ輩……」
「――
初めて呼ばれた名前に、思わず目を見開いた。
すぐ間近にある、先輩の顔。その瞳は欲望に濡れていて、目が合うと蕩けるような笑みを浮かべた。
それは初めて見る、多分この行為の最中にしか見せない顔だった。今ではきっと、奥さんにしか見せる事のないものだろう。
「……んっ、――先、輩……」
先輩の頭を引き寄せて、口付ける。今までは触る事など許されなかった後頭部の髪を弄りながら、舌を絡ませ合った。
幸せに、下半身が疼く。持ち上げると、先輩も自分のものを触れさせてきた。互いに擦り付け合いながら、小刻みに息を吐いた。
「学生の時みてぇ」
ハッ、ハッと息を乱しながら先輩が笑う。
見上げる僕に、「いや、違うぞ」と真面目な顔で訂正した。
「中学生の時に、女相手にだぞ」
男はお前だけだと、律儀に言い訳した。
本当に。この人を自分のものだけに出来たなら、どんなにか幸せだったろうと思う。
「これからもそうである事を願いますよ」
奥さんの為にも、と冗談に付け加えると、一瞬不機嫌に顔が顰められた。
「2度と余計な事、言えなくしてやる」
僕の両膝を広げて、後方を解し始める。
「んっ……は、あぁ……あ……」
この前の時は、勿論自分で解した。その行為を先輩がしていると思うだけで、心も体も限界を訴えていた。
「――もう、先輩……」
僕の台詞に、先輩が笑いながらキスを落としてきた。幸せに、瞼を閉じる。
『それでもやっぱり。浮気する奴も、不倫する奴も、俺は最低だと思うんだ』
耳の中で声が聞こえて、息が止まった。
押し入ってくる先輩に、上擦った声を洩らす。
脳裏には何度も頭を下げていた藤堂君の姿が蘇ったが、体は目の前の先輩を求めていた。
「……ごめん」
それは、声に出ていたかどうかは判らないけれど。目尻を伝う涙は、確かにソファへと滲み込んでいった。
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