十八


 最初それは、幻なのかと思った。


 マンションの玄関に佇む影。植え込みに腰掛けるでなく、本を読むでなく、彼は只、僕を待ってくれていた。


 小走りに近付くと、真っ直ぐと見上げてくる。そうして照れたように、小さく笑いを零した。


「おかえり、先生」


 懐かしいとさえ感じる、藤堂君の声。僕は言葉もなく、只彼を見つめた。


「この前は、みっともない処見せちゃって……」


 顔を顰めながらも、笑顔を見せてくれる。


「――どうして。どうしてメール、くれなかったの?」


 判っていたら、もっと早く帰って来たのに。走って、電車にも飛び乗って、家までずっと、走り通しで帰って来たのに……。


「……だって」


 俯いて、吐息のように言葉を吐き出して、藤堂君は黙ってしまった。


 その先を待ってみたが、言うつもりはないらしかった。


「ねぇ。取りあえず、うちに寄ってよ」


 鍵を取り出して言うと、彼はコクリと頷いて、おとなしくついて来た。


「そう言えば。お母さんは大丈夫?」


 エレベーターを待ちながら問うと、彼は思い出したように笑いを零した。


「ああ、全然元気。訴えるとか慰謝料だとか言って、ガッツリ金取ってやったって言ってた。この前まではあんなに入れ込んでたっていうのに、信じらんねぇ」


「……へぇ。――パワフルなんだね」


 なんと言っていいか判らず返すと、彼は呆れを含ませた声を出した。


「ホント。女って怖いよ」


 思わず笑いが洩れる。いつもの調子に戻ってくれたのが、何より嬉しかった。


 なんだか上機嫌で自宅のドアを開け、藤堂君を招き入れる。


 電気を点け、靴を脱いで、リビングに向かおうとして、その気配に気が付いた。勢いよく、振り返る。


 彼は玄関で靴を脱ぐ事もせず、しゃがんで僕の靴を揃えていた。いつもは上がってからするコトを、上がる素振りすら見せずに、していた。


「藤堂君」


 ――嫌な、予感がする。


 ねぇ、なんで今日はそんなにおとなしいの? 


 何故、靴を脱がないの?


 どうして、俯いたままで顔を上げてはくれないの?


「……先生」


 絞り出すような声。


 その先を聞きたくなくて、小さく首を振る。顔を上げない彼に気付かれないと判っているのに、それでも、首を振る事しか出来なかった。


 ねぇ、嫌だよ。


「先生。……今日は、お別れを言いにきたんだ」


 聞きたくない台詞が、彼の口から吐き出される。


 顔を上げない彼に、声を出せないでいる僕。


 まるで意志を伝える手段を、お互いに忘れてしまったかのようだった。


「俺、引っ越したんだ。ここはあいつの持ち物だったから。高校は変わらずに済んだけど、ここまでは結構遠いよ。自転車で40分も掛かった」


 笑いを零したらしい彼の肩が震える。何も言えずにいると、彼はその空気が耐えられないとでも言うように、更に言葉を重ねた。


「あのさ。まだ先生としゃべった事もない頃、俺1度だけ、朝に先生をつけて行った事があるんだ。学校もつまんなかったし、家にもいたくなかったし。ほんの気紛れ。電車乗ってさ。満員電車の中、先生見失わないようにずっと見てた」


 彼が何を言わんとしてるのか、よく解らなかった。でも一気にしゃべる彼の言葉を遮る事も出来なくて、只、黙って聞いた。


「その時先生さ、真っ直ぐ立ってたんだ。ダルそうにしてる人達の中で1人だけ、しゃんと立って、真っ直ぐと窓の外だけ見つめてた。俺ね、『ああ、こんな大人いいな』って思ったんだ。


 でさ、この前先生の診察受けた時、『恰好いい』って思ったよ。先生だけじゃなくあそこで働いてるみんな。しゃんとして、テキパキした感じでさ。俺、凄く衝撃受けて。『どうしたらこんな風になれるのか』って真剣に考えた。そしたら自然に、『大学行きたい』って思ったよ。大学が全てじゃないだろうけど、先生みたいになろうと思ったら、『大学ちゃんと行かなきゃ』って」


 頭を上げない藤堂君は、僕の靴を撫でている。


「俺、こんな靴履いて働けるようになったら、絶対先生を思い出すよ。先生みたいにしゃんと立って、真っ直ぐ前見てさ。エレベーターで会う学生がいたら、毎朝やさしく『おはよう』って微笑んで。俺、絶対に――」


 鼻を啜る音がして、初めて彼が泣いているのだと気が付いた。乱暴に袖で涙を拭って、勢いよく立ち上がる。


「先生、今までホントにありがとう。さよなら」


 深く頭を下げて、出て行こうとする。僕は慌てて、初めてじゃないかと思えるほど機敏に動いて、彼の腕を掴んだ。


 驚いて振り向く彼を、引き寄せる。強く胸に抱いて、囁いた。



「――嫌だよ」



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