次の日は、いつもより早めに家を出た。


 藤堂君と会わないようにという事ではなかったが、顔を合わせ辛いのは確かだった。


 カバンの中には退職願。


 もう1人、顔を合わせ辛い人物がいる。


 足取りは重く、頭も重く、なのに誰よりも早く、僕は医院に到着した。


「おっ早いな」


 ドアの前で待つ僕に、後ろから声が掛かる。振り向くと、チャリチャリと鍵を揺らしながら、先輩が歩いて来ていた。


「あ……」


 挨拶の言葉も出せず、鍵を開ける先輩を見つめる。


「一昨日は悪かったなぁ。用事があったのに、無理矢理付き合わせちまって」


「え?」


「置手紙。俺、酔い潰れちまってただろ?」


 情けない処見せちまったなー、などと呟く彼に、力が抜ける。


 ――憶えてないのか?


 倒れそうになりながらも、安堵の溜め息が洩れた。


「いえ僕も、つい忘れていたので。ありがとうございました」


 思わず、笑みが零れてしまう。


「そういや先輩、酒弱いんでしたね。学生時代から」


 揶揄うように言うと、「このヤロウ」と頭を羽交い絞めにされた。


 大学生の頃からこの人は変わらない。いつまでも学生気分を忘れない反面、治療にはスタッフ全員が惚れ込んでしまう程、徹底したこだわりを見せる時もあった。


「奥さん、戻られましたか?」


「ああ。愛妻は戻って来た。……でも、今度は愛車がいなくなった」


「は?」


「車検」


「ああ。車持つと、そういう苦労もありますよね」


「そうなのよ。まあ、ペーパードライバーの誰かさんには、無縁の話だろうけどな」


「なんですか、それ。さっきの仕返し?」


「――と、言う訳で。帰りは一緒に駅まで行こうな。今日は智恵子が待ってるから、飯は奢ってやれないけどさ」


「いいですよ。どんだけタカると思ってるんですか」


 ハハハッと笑って、彼は思いっきり伸びをしてみせた。


「また1週間、頑張るかーッ」






「ほんと俺達。よく働くよなー」


 夜の道を駅へと向かいながら、先輩は溜め息をつくように言葉を吐き出した。


「何人ぐらい診たっけ? 2人で80人ぐらい?」


「今日はもう少し多かったんじゃないですか?」


「あの忙しさだもんなー」


 もう夜の10時半を回っている。もっと長く働いている人もいるだろうが、僕には今でも充分長かった。


「患者さんも、文句も言わずによく待ってくれてますよね」


「一応、予約制なのにな」


「ですね」


 2人で苦笑を浮かべ、明日もまた続くのかと少々ウンザリした。


「ま、お前みたいな頼れる後輩を持って、俺はまだラッキーだな」


 そう言って、僕の肩を抱き寄せる。これは学生時代からの、彼の癖だった。


「頼れるかどうかは別として、1人では大変ですよね」


「考えただけで恐ろしいな」


 ハハハと笑い合っていると、何かを目の端が捉えた。それは物凄い勢いで、こちらへと近付いて来る。


 物騒な気配に視線を向けると、その先には藤堂君の姿があった。


 怒った顔で、その目は僕ではなく、真っ直ぐと先輩を見つめている。


「この野郎ッ!」


 いきなり両手で、先輩の胸倉に掴み掛かった。


「えっ。ちょっと、藤堂君」


 聞く耳を持たず、腕に触れた手も、勢いよく払われてしまう。


「お前ッ! 奥さんいんのに、まだ久坂先生に手ェ出してんのかッ!」


「ゲッ!」


 ――なんて事を!


 目を見開いて藤堂君を見つめる先輩もそうだろうが、僕も軽くパニックに陥った。


「子供だって、もうすぐ産まれんじゃねぇのかよッ!」


 そんな僕の動揺も知らず、藤堂君は掴んだ胸倉をガクガクと揺らし続けている。


「なんとか言ってみろよッ」


 威勢のいい、藤堂君の声。


 それに対し、今まで為すがままでいた先輩が、「じゃ、遠慮なく」と静かに口を開いた。


「――なんの話?」


「はぁッ?」


 しばらく固まった2人が、ゆっくりとこちらを振り向く。2人それぞれの理由で、僕に説明を求めていた。


「いやー。これは、その……」


 取りあえず、緩んだ藤堂君の腕を掴んで、先輩から離れる。


「すみません、先輩。失礼します」


 どういう事? と何度も先輩を振り返る藤堂君を引っ張って、道路の隅へと寄った。


「あのね、藤堂君」


「キスマーク付けたのって、あいつじゃないの?」


 慌てて彼の口を塞ぐ。駅の改札を抜けて行く先輩を目で追いながら、声を潜めた。


「彼はね、憶えてないんだ」


 仕方なく、先輩が酔っている間に行為に及んだ事。彼はまったく憶えてなくて、浮気をしたとは夢にも思っていない事を説明した。


「――ズルいな。そんな事有り得る?」


 腕を組んでそっぽを向いた藤堂君の唇の端に、絆創膏が貼られている。


 そんな事にさえ、今頃気付く始末だった。


 さっき叫んだ所為だろう。また血が滲んで、ガーゼの部分を薄く染めていた。


 痛々しくて、そっと親指で撫でる。すると、驚いたように僕を見上げてきた。


「そうだけど。でも、僕はそれで職を失わずに済んだから」


「……え?」


「だって、いられないじゃない。奥さんもいて、子供だってもうすぐ産まれてくる人に、手ェ出しちゃったんだから」


 手を離し「いられないよ」と、自分にも言い聞かすように繰り返す。


 しばらく無言で僕を見つめていた彼は、「バレなきゃいいんだな」と、強い口調で言った。


「バッカヤローッ」


 叫びながら踵を返し、走って行く。


「ちょっ……」


 呆然とそれを見送って、彼が改札を抜けてからようやく、遅蒔きで僕は足を動かし始めた。


 慌てて改札を過ぎて階段を駆け上がる。息切れしながら、藤堂君を捜した。


 僕が立っているプラットホームにその姿はなかったが、線路を挟んだ反対側――並んだベンチの 向こう側に、彼はいた。


 先輩の前に立ち、頭を下げている。


 先輩が責めてる訳ではないだろうに、何度もそれを繰り返した。


「やめてよ」


 君が悪い訳じゃないのに。


 悪いのは僕なのに。


 なんでそんな事するんだよ。


 もうやめてくれときつく目を瞑って、彼から顔を逸らせる。




 ――見てられないよ。





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