「ホントはさ、久坂先生に謝ろうと思って、あそこで待ってたんだ」


 帰りの電車の中。両手で1つの吊り革を握った彼は、身を乗り出すようにして体重をかけた。


「まだ謝ってもらってないけど」


 ブスリとして言うと、藤堂君は顔を伏せるように笑って首を振る。


「ダメダメ。さっきのでチャラだよ」


「チャラ?」


「昨日のお礼と謝罪。その2つ分は、あの人に頭下げたもんね。俺」


 ベッと小さく舌を突き出す。


「あんな事しなくてよかったのに」


 僕の不機嫌なんて意に介さず、彼は「でもさ」と返してくる。


「あのままだとあの人、なんの事だろってずっと考えるよ。不意に思い出しちゃったらどーすんの」


「自業自得だよ」


「先生、いれなくなっちゃうって言ったじゃん」


「だから。自業自得なんだよ、僕の」


 隣から、じっと見つめてくる藤堂君の視線を感じる。


 何かを言おうとしている気配は感じられたが、僕は態度でそれを撥ね退けた。


「でも俺は。辞めてほしくないな、あそこ」


 窓の外を見つめ、独り言のように呟く。


 チロリと彼に視線を落とすと、顔をこちらへと向け、ニッコリと微笑んだ。


「なんでなの?」


「ん? 内緒」


 吊り革にぶら下がり、立てた人差し指を唇へとあてる。


 その動作はとてもかわいらしくて、彼から目が離せなくなる。


 僕の視線に気付いたのか身を正し、顔を逸らせるようにして窓の外へと目を向けた。


「――ねぇ先生。俺一昨日、ウチが母子家庭だって言ったでしょ?」


「うん」


「ウチの両親、離婚しててさ。原因は親父の浮気なんだけど。そん時、母さん凄ェ泣いてさ。手ぇつけらんないぐらいだったんだよね」


 視線を落とし、辛い記憶に顔を歪ませる。


「地獄だったなぁ、あん時は」


 ポツリと小さく呟いて、口を閉じる。しばらくしてハッとしたように顔をこちらへと向けると、指を突き出してきた。


「なのにさっ、今度は自分が不倫してんだぜ? サイテーだと思わねぇ?」


 僕を指差し、勢いよく言う。


「あのオッサンには、俺より年下の娘がいるって言うし。子供があんな思いすんのは可哀想だっての!」


 彼の言葉は、まるで僕を責めているかのようで、僕は同意する事も出来ずに、「ごめん」と小さく返していた。


「あ、いや。今のは先生の事言ったんじゃなくて、その……」


 気まずそうに手を振った後、彼は動きを止めて「でもさ」と低く呟いた。


 僕から顔を逸らす。


「それでもやっぱり。浮気する奴も、不倫する奴も、俺は最低だと思うんだ」


「……うん」


 気持ちが沈んでいく。彼の言っている事はまさしく正論で、返す言葉もなかった。


「あっ。――でもそう言やさぁ。酔ってたからだったんだな。先生が俺に、あんな事しようとしたのって」


 今思い出した、と空気を切り替えるように彼が笑う。


「あんな事?」


 その言葉に弾かれるように僕を見て、次の瞬間、不機嫌そうに顔をしかめた。


「解んないなら、いいんだ」


 その瞳はもう僕には戻ってこなかったので、彼の心を探る事は出来なかった。


 ――ねぇ。もし、今。


 酔ってたからじゃないと言ったら、君はどんな顔をするの?


 酔ってなんていなかったし、この瞬間も君に触れたいと思っていると言ったなら、君はどんな顔をしてみせるのだろう。


 こんな事、言えやしないのにね。


 正しいのは、君なのに。


 あの時は只『雅臣』に触れたかった。君が雅臣に似てるから、雅臣と同じ事を言うから、触れた後も雅臣と似ているのかを試したくなった。


 でも今は、僕の為に頭を下げてくれた、顔を歪ませながらも辛い思い出を話してくれた、藤堂君に触れてみたいと思うよ。


 ――どうして。先輩とあんな事、してしまったんだろう。


 後悔する気持ちと、後悔したくない気持ちが心の中で渦を巻く。


 それは、やっと叶った欲望だったから。一時でも彼を、『自分のモノ』に出来たから。



 ……雅臣。僕は、あの頃から何1つ変わってないんだよね。



 叶いもしないのに、その時の欲情に身を任せて、独占出来ない相手に溺れて。


 ねぇ。君は今どうしてるの? あの彼女とはまだ付き合ってる? 普通にもう、結婚してるのかな?


 不意に、どうしようもなく雅臣に会いたくなる。


 あの関係に戻れなくても、こうしてまた、肩を並べてみたいと思った。


 隣の藤堂君に目を向ける。真っ直ぐと窓の外を見つめる瞳は、雅臣のそれにとてもよく似ていて。


 僕の、言葉を吐き出す勇気を、剥ぎ取ってしまう。




 ねぇ雅臣。僕が人を好きになるその先には、やっぱり今でも、君が姿を現すんだ。






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