八
「ホントはさ、久坂先生に謝ろうと思って、あそこで待ってたんだ」
帰りの電車の中。両手で1つの吊り革を握った彼は、身を乗り出すようにして体重をかけた。
「まだ謝ってもらってないけど」
ブスリとして言うと、藤堂君は顔を伏せるように笑って首を振る。
「ダメダメ。さっきのでチャラだよ」
「チャラ?」
「昨日のお礼と謝罪。その2つ分は、あの人に頭下げたもんね。俺」
ベッと小さく舌を突き出す。
「あんな事しなくてよかったのに」
僕の不機嫌なんて意に介さず、彼は「でもさ」と返してくる。
「あのままだとあの人、なんの事だろってずっと考えるよ。不意に思い出しちゃったらどーすんの」
「自業自得だよ」
「先生、いれなくなっちゃうって言ったじゃん」
「だから。自業自得なんだよ、僕の」
隣から、じっと見つめてくる藤堂君の視線を感じる。
何かを言おうとしている気配は感じられたが、僕は態度でそれを撥ね退けた。
「でも俺は。辞めてほしくないな、あそこ」
窓の外を見つめ、独り言のように呟く。
チロリと彼に視線を落とすと、顔をこちらへと向け、ニッコリと微笑んだ。
「なんでなの?」
「ん? 内緒」
吊り革にぶら下がり、立てた人差し指を唇へとあてる。
その動作はとてもかわいらしくて、彼から目が離せなくなる。
僕の視線に気付いたのか身を正し、顔を逸らせるようにして窓の外へと目を向けた。
「――ねぇ先生。俺一昨日、ウチが母子家庭だって言ったでしょ?」
「うん」
「ウチの両親、離婚しててさ。原因は親父の浮気なんだけど。そん時、母さん凄ェ泣いてさ。手ぇつけらんないぐらいだったんだよね」
視線を落とし、辛い記憶に顔を歪ませる。
「地獄だったなぁ、あん時は」
ポツリと小さく呟いて、口を閉じる。しばらくしてハッとしたように顔をこちらへと向けると、指を突き出してきた。
「なのにさっ、今度は自分が不倫してんだぜ? サイテーだと思わねぇ?」
僕を指差し、勢いよく言う。
「あのオッサンには、俺より年下の娘がいるって言うし。子供があんな思いすんのは可哀想だっての!」
彼の言葉は、まるで僕を責めているかのようで、僕は同意する事も出来ずに、「ごめん」と小さく返していた。
「あ、いや。今のは先生の事言ったんじゃなくて、その……」
気まずそうに手を振った後、彼は動きを止めて「でもさ」と低く呟いた。
僕から顔を逸らす。
「それでもやっぱり。浮気する奴も、不倫する奴も、俺は最低だと思うんだ」
「……うん」
気持ちが沈んでいく。彼の言っている事はまさしく正論で、返す言葉もなかった。
「あっ。――でもそう言やさぁ。酔ってたからだったんだな。先生が俺に、あんな事しようとしたのって」
今思い出した、と空気を切り替えるように彼が笑う。
「あんな事?」
その言葉に弾かれるように僕を見て、次の瞬間、不機嫌そうに顔をしかめた。
「解んないなら、いいんだ」
その瞳はもう僕には戻ってこなかったので、彼の心を探る事は出来なかった。
――ねぇ。もし、今。
酔ってたからじゃないと言ったら、君はどんな顔をするの?
酔ってなんていなかったし、この瞬間も君に触れたいと思っていると言ったなら、君はどんな顔をしてみせるのだろう。
こんな事、言えやしないのにね。
正しいのは、君なのに。
あの時は只『雅臣』に触れたかった。君が雅臣に似てるから、雅臣と同じ事を言うから、触れた後も雅臣と似ているのかを試したくなった。
でも今は、僕の為に頭を下げてくれた、顔を歪ませながらも辛い思い出を話してくれた、藤堂君に触れてみたいと思うよ。
――どうして。先輩とあんな事、してしまったんだろう。
後悔する気持ちと、後悔したくない気持ちが心の中で渦を巻く。
それは、やっと叶った欲望だったから。一時でも彼を、『自分のモノ』に出来たから。
……雅臣。僕は、あの頃から何1つ変わってないんだよね。
叶いもしないのに、その時の欲情に身を任せて、独占出来ない相手に溺れて。
ねぇ。君は今どうしてるの? あの彼女とはまだ付き合ってる? 普通にもう、結婚してるのかな?
不意に、どうしようもなく雅臣に会いたくなる。
あの関係に戻れなくても、こうしてまた、肩を並べてみたいと思った。
隣の藤堂君に目を向ける。真っ直ぐと窓の外を見つめる瞳は、雅臣のそれにとてもよく似ていて。
僕の、言葉を吐き出す勇気を、剥ぎ取ってしまう。
ねぇ雅臣。僕が人を好きになるその先には、やっぱり今でも、君が姿を現すんだ。
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