駅から出てマンションへと向かっていると、突然藤堂君が「あっ」と小さく声をあげた。


「先生、ご飯食べていこうよ」


 そう言って、僕のコートの肘を引っ張る。


 彼が触れてくれた事が嬉しくて、ふたつ返事で同意する。


「食べる所、俺が決めていい?」


 上機嫌でしゃべる彼に「いいよ」と言うと、笑って足早に歩き始めた。


「先生、早く早く」


 彼が足を止めて手招いた店は、こぢんまりとした居酒屋だった。店は小さいが、漏れ出てくるガヤガヤとした声からは、繁盛しているのだと判る。


「え? ここ?」


 僕が戸惑っていると、「そうっ」と元気よく答えて、藤堂君は暖簾を潜ろうとした。


「ちょっと待って。もう1度訊くけど、ここに入るの?」


「そうだよ」


 ――君、高校生でしょ?


 僕が止めようとしているのにも構わず、彼は足を踏み出す。


「らっしゃいッ」


「しゃいませーッ」


 ガラリと引き戸を開けた途端、威勢のいい声がいくつかかけられた。


「おおっ、コウじゃん!」


 客へとビールを運んでいた若い店員が、藤堂君を見て顔を輝かせる。


 黒縁のメガネは、優等生っぽい雰囲気を醸し出している。しかし頭に巻いた黒いバンダナが、居酒屋らしい気さくな感じを出していた。


「高次ー、メシーッ」


 手を突き出した藤堂君が高らかに言うと、若い店員は笑ってその手に掌を合わせた。


「俺はお前のお母さんかッ」


 そのまま頭をチョップする。この軽口は、仲のいい友達の証だ。


「おじさん、おばさん、こんばんは。あの空いてる座敷の席、座ってもいい?」


 藤堂君がカウンターの中に顔を向ける。


「もちろん」


 愛想よく笑った2人が僕へと目を向け「どうぞッ、お掛け下さいッ」と、手でテーブルを示した。


 藤堂君と僕が1番奥のテーブルに腰掛けると、すぐにお茶が運ばれてくる。店内を見回すと、木を中心とした店の佇まい事態は古いが、 丁寧に掃除がされていて不潔さはなかった。


「先生、こいつ俺の友達で、安永高次こうじっていうんだ」


 顔を元に戻すと、藤堂君の友達は僕の前にお茶を置いて、どうも、と頭を下げた。


「もしかして、歯医者の先生……ですか?」


「えっ」


 僕が驚くと、彼は挑戦的な瞳を向けてきた。


「コウとは親友なんで」


 全てを知ってます、と言うような含みを見せ、メガネの奥で目を細める。


 藤堂君に手を出そうとした事を言っているのだと、すぐに気が付いた。


「親友って言うか、悪友?」


 図太いのか、鈍感なのか、藤堂君は呑気な声を出している。


「高次、久坂先生とは同じマンションでさ。一昨日あいつに殴られた時に、寒いからって部屋に入れてくれたんだぜ」


 笑う藤堂君に「ふーん」と等閑に頷く。


 そして手を伸ばすと、人差し指の関節で藤堂君の絆創膏へと触れた。


「次からは、ちゃんとうちに来いよ」


 その仕草には、切なさが含まれている。すぐに状況を理解している様子から、藤堂君の家の事情をよく知っているようだった。


「痛てぇって」


 少し身を引いた藤堂君が、首を縮めるようにして笑う。


 ああ、彼にもこんなにいい友人がいるのか、とホッとすると同時に、もやもやとしたモノが心に広がった。


 それは雅臣と彼女を見ている時の気持ちに似ていて……。僕は、居た堪れない気持ちで瞼を閉じた。


「それでコウ、何食べる?」


「先生、何にする?」


 目を開けて、差し出されたお品書きを手に取る。しかしそのまま閉じて押し返し、藤堂君に微笑みかけた。


「藤堂君と一緒で」


 すると大袈裟に「えーッ」と不満げな声を洩らし、藤堂君は睨むようにお品書きを見つめる。


「なんでも食べれるの?」


「魚以外なら」


 上目遣いで見てくる藤堂君に「ごめんね」と言うと、頬杖を付いて溜め息を洩らした。


「高次。お前今日は何の仕込み手伝ったワケ?」


「肉じゃがと、さばの鶏しんじょ蒸し」


「魚はダメだってば」


 肩を竦めて苦笑を浮かべる。


「魚食べれないなんて、人生の3分の1を損してる」


 安永君が伏せた視線をチロリと僕に向けて、それが厭味なのかクセなのか、口許を歪めた。


「コウは魚好きなのに」


「だよなー? でも今日は肉じゃがを中心に食べよっと。味見させてよ」


 腰を上げた藤堂君に付いて行きかけた安永君が、ふと振り返る。


「先生、ビール飲みますか?」


「……う、うん。ありがとう」


 なんだか、こんな場所で知らない子に「先生」と呼ばれるのは、凄く違和感があって、居心地も悪かった。

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