二
診療が終わると、僕と院長は『院長室』でコーヒーを飲むのが日課になっている。
ここに勤め始めた頃は片付けと掃除を手伝っていたのだが、それが
彼女達は掃除をしながら今日来た患者さんの事や昨日のテレビ、そして彼氏の事などを話したいのだ。
だがそれには僕が邪魔なようで……。
「やっと気付いたか」
何日かしてから居場所がなくて院長室に入って行くと、愉快そうに笑った院長からそう言われた。そして初めてコーヒーを淹れてもらった。
「美味い」
そう呟いた言葉が嬉しかったのか、それからは毎日院長の淹れてくれるコーヒーをご馳走になっている。
院長と言っても、僕と3歳しか変わらない。29歳で開業して1年後、大学の後輩である僕に声をかけてくれたのだ。
ここでの仕事は遣り甲斐もあって、勉強にもなる。7人いるスタッフの女の子達も、中々いい子揃いだった。
院長と向かい合ってコーヒーを啜っていると、コンコンッと小さな音と共にドアが開いた。
「院長、久坂先生。お先に失礼します」
3人が顔を覗かせ挨拶してくる。声を揃えるように「お疲れ様」と返す僕達に微笑んで、ドアが閉められた。
彼女達が帰ってしばらくして、僕は院長と自分のコーヒーカップを持ってスタッフルームへと向かった。
少し大きめのスタッフルームには、流しに洗濯機、ソファセットにロッカーが置かれている。この部屋にも立派なコーヒーメーカーが置かれているが、女の子達はあまりコーヒーをお好みではないらしかった。
後シャワーでもあれば、この医院で生活出来るんじゃないだろうか、などと考えながら着替えを済ます。
洗ったコーヒーカップを持って院長室に戻ると、中から話し声がしてきた。ボソボソと話す声は、時折笑いが洩れ、相手は奥さんだと察しがついた。
控え目にノックをし、顔を覗かせると、携帯を耳にあてながら院長が身振りで「入って来い」と促した。
彼は着替えの途中だったらしく、シャツの前を肌蹴たままだった。
男同士だからと思っているのだろうが、僕の気持ちなどこの人はまったく考えてもいなかった。
頭を下げてカップを棚に戻す。「では失礼します」と挨拶をしようとしたところで、院長が悪戯っぽい視線を向けてきた。
「じゃあ今夜は俺、久坂先生と飲んで帰るからさ」
えっ、と固まってしまっている僕にウィンクをしながら「大丈夫、彼も嫌がってないよ」と笑いを含んで奥さんへと返した。
「ホント。全然」
クスクスと笑う。
彼のこういう強引な処、奥さんにはお見通しなのだろう。
そっと密かに吐いた溜め息と同じモノを、奥さんも今頃零しているのかもしれない。
しばらくの問答の後、彼は上機嫌で電話を切った。
「さっ。行くか」
恨めしげな僕の視線を受け、楽しそうに笑いながら「大丈夫」と言ってのける。
何が? と眉を寄せると、「俺の奢りだ」と続けた。
――そーいう事言ってんじゃないでしょーが。
「あのね、先輩」
呆れ気味にそう言うと、コートを羽織った彼は「ん?」と首を傾げ、立てた指で車のキィをチャリチャリと回した。
「――まさか。車で行くつもりなんじゃ……」
「そうだよ。悪い?」
「……僕、帰ります」
クルリと背を向けた僕に、「待て待て」と彼の手が伸びる。ガシリと腕を掴まれて引き戻された。
「イヤです。犯罪者の片棒担ぐのは」
『歯科医師、飲酒運転で逮捕』なんて、新聞の見出しが脳裏に浮かぶ。酷ければ『飲酒運転で事故』になっているかもしれない。
それに『人身』まで付いたら、どうしてくれるんだ。
「なんですか。ペーパードライバーの僕に運転しろとでも言うんですか」
「いや、それはカンベンしろ。俺はまだ死にたくない」
「うっ」と返す言葉もなく睨むと、彼は「いや、冗談だ」と軽く笑った。
「ホテルで飲もう。な? じゃあ上に泊まれるから、問題ないだろ?」
「え? 家には、帰らないんですか?」
心底驚いて訊き返す。確か奥さんは、身籠っていた筈だ。
すると彼は、拗ねたように唇を尖らせた。
「あいつ今日、実家に帰ってるんだよ。引き止められて、今日は泊まるつもりらしい」
「ああ、そうですか」
――なんだ、そうなんですか。
「あいついない時に帰ると、家ん中真っ暗なんだよ。いつも廊下もリビングも煌々と明るいのに、真っ暗でさ、なんかヒンヤリとしてて、虚しいんだよな」
1人暮らしの身には慣れた日常。でも、普段迎えてくれる人がいる身には、辛いものなのかもしれない。
「仕事で疲れて帰ってんのに、そりゃないだろって思うだろ」
しかし。ここはやはり子供ではないんだから、我慢してもらいたい。
「そんなの、僕なんか毎日ですよ」
「だろ? だからツイン頼むから。ツイン」
指をVの字に立てて、突き出してくる。
「は? なんですか。それは」
「勿論、奢るから」
な? と言いながら、肩に手を回してくる。
「明日は仕事休みだし、心置きなく飲むぞー」
短く洩れた僕の溜め息を、同意の印と受け取ったらしい。上機嫌で院長室の鍵を閉めた彼は、「ああ、そうだった」と人差し指を突き立てた。
「お前に、智恵子から伝言があったんだ」
「奥さんから? ――なんですか?」
なんとなく警戒しながら、訊き返す。僕の気持ちに気付いている筈もなかったが、何かしら釘を刺されるのかもしれなかった。
「ああ、えーっとな。『ご愁傷様です』だってさ。……なんで?」
「…………」
――どうやら。奥さんの方が、何倍も『うわて』らしかった。
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