三
マンションの少し手前でタクシーを降りる。
酔いなんてもう残ってはいなかったが、フラつく足を1歩1歩踏みしめた。
――なんて事を、してしまったんだ……。
吐き気にも似た『何か』が、体の奥底からせり上がってくる。
それは羞恥か、後悔か。
呻き声が洩れそうになる口を、必死に掌で押さえた。
気を抜くと、甦る。
ベッドに横たわる彼に跨り、腰を振っていた自分の姿。
厚い胸板に手を這わせ、酒に潤んだ瞳を見下ろして、吐息を洩らす彼の姿に酔い痴れた。
「だって……!」
彼が、好きなんだ。
力が抜けて、しゃがみ込んでしまいそうになる足を必死になって前へと進める。
そんなつもりなんてなかった。酔った彼を部屋まで運んで、ベッドに寝かせて、自分も隣のベッドに入る。
たった、それだけの事だったのに……。
コートとジャケットを脱がせ、ベッドに横たえた途端、不意に彼の目が見開かれた。
間近で見つめ合って、酒の所為で掠れた声が、僕の名を呼ぶ。
引き寄せられた唇は、当然のように重なって、すぐさま熱い舌が絡み合った。奥さんの妊娠で溜まっていた彼は、欲望を吐き出す事に、とても貪欲だった。
――いや、違う。
違う。誘ったのは……僕だ。
溜まっていたのも、欲望を吐き出すのに貪欲だったのも。
この瞳で彼を求め、酔った彼を取り込んだ。
「なんて……事……」
どんよりと重い頭でいくら考えても、埒が明かない。
置手紙を残し、部屋を出る時に見た彼の寝顔だけが、何度も脳裏に蘇った。
「あれ?」
マンション玄関の植え込みに誰かが腰掛けているのが見えて、思わず腕時計を見る。
もう深夜の3時を回っている。自分の事は差し置いて、酔っ払いかと警戒しながらゆっくりと足を進めた。
「あっ。――君は……」
なんで、こんな時間に。
黒いダウンジャケットを着た影が、振り返る。向こうも驚いた表情を浮かべ、白い息を吐き出しながら笑顔を浮かべた。
「先生。なんだよ、酷く遅くねぇ?」
スマホで時間を確認して、立ち上がる。
「藤堂君こそ、こんな遅い時間に何してるの?」
言って、彼の唇の端が腫れ、血が滲んでいるのが目に留まる。
僕の視線に気付いたのか、照れ臭そうに頭を掻き、苦笑を浮かべた。
「殴られて、家、飛び出しちゃった」
寒さで赤くなった鼻を軽く啜る。
「……あー、お父さんって、厳しい人なのか」
「――あんなの。親父なんかじゃねぇよ」
その時だけは無邪気な彼の瞳が、怒りを含み、大人びた光を放った。
「でもこんな時間だし、心配してるんじゃない?」
「……あのハゲが帰ったら、俺も帰る」
「え? 本当にお父さんじゃないの?」
「ああ、うちは『母子家庭』ってヤツなんだ。今家に上がり込んでんのは、母さんがママ任されてるスナックのオーナー。兼、不倫相手」
「あー……」
なんと答えていいか判らず、曖昧な、返事とも言えない声を発した。
「そうだ。よかったらウチで時間潰す?」
思いついて、そのままを口にする。もしかしたら、1人でいたくなかっただけなのかもしれない。
しばらく呆気に取られていた彼は、次の瞬間、嬉しそうに破顔した。
「いいの?」
そんな表情をされたら、例え口先だけで言った言葉だったとしても、「やっぱりウソ」だなんて言えない。
勿論、口先だけで言った言葉なんかではなかったけれど。
彼と本格的に言葉を交わしたのは今日が初めてだったが、今までも朝エレベーターで会うと「おはようございます」と自分から挨拶をしてくる、好青年だった。
だから印象は悪くないし、こうして『タメ口』が自然と出てくる性格も、嫌いではなかった。
「いいよ。散らかってるけどね」
言いながらオートロックの鍵を開け、エレベーターへと乗り込む。そうして6階のボタンを押した。
「そう言えば、藤堂君は何階に住んでいるの?」
「12階」
ぶっきらぼうに答えられたそれは、このマンションの最上階で、3つしか住宅がないフロアだった。
「へえ……」
――お金持ちなんだな。
素直な感想は、心の中だけで呟いておく。それを口に出してしまえば、一瞬にして彼に嫌われてしまう程の威力を、その言葉は持っている気がした。
コの字型の廊下。その1番奥の自宅に鍵を差し込む。開けた玄関内は、勿論真っ暗だった。
電気を付けると、彼は物珍しげに質素な玄関から廊下にかけてをグルリと見回した。
「お邪魔します」
好奇心にニヤニヤと笑いながら、靴を脱ぐ。そうしてすでに脱いでいた僕の靴と自分の靴を、揃えて置き直した。
「躾がちゃんとされてるんだなぁ」
感心して呟くと、驚いた表情を浮かべた彼は「違うね」と吹き出した。
「中学ん頃、遊びに行った女の家でさ、そいつがしてたんだよなぁ。そいつん家はいつも玄関が綺麗でさ、整頓されてて、スゲェ気に入ってたんだ」
そう言いながら、僕の靴の埃を手で撫でるように掃った。
「うちの母親はそんなの全然気にしねぇの。服も脱いだら脱ぎっぱなしって感じ。俺が毎日靴揃えてんのにも気付いてねぇよ」
「――僕も、そっち派かも」
呆れられるかと思ったが、意外にも彼は笑って同意した。
「実は俺も。あいつとは、住む世界が違ってたんだよなぁ」
懐かしむような声は、きっと彼の初恋の相手だったからに違いない。
そう思ったからなのかどうか。見下ろしている彼の背中が、突然自分の初恋の相手と重なって見えてドキリとした。
――雅臣?
呆っとしている間に、立ち上がった藤堂君が僕を見上げていた。
どうしたの? とその瞳が問いかけている。曖昧に微笑み返して、僕はリビングへと向かった。
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