「本当に、散らかってるからね」


 念を押しながら電気を点ける。明るくなった室内に、彼は「へぇ」と声を洩らした。好奇心に満ちた瞳が四方を見渡す。


「洗面所は廊下の右のドアだから、手洗って口濯いでおいで。冷やさないと」


 ガスのスイッチを入れて自分もキッチンで手を洗いながら、藤堂君に声をかける。ハッとした彼は、「はいッ」と小気味よい返事を残し、リビングから走って出て行った。


「これで冷やして」


 保冷剤をハンドタオルで巻いた物を、戻って来た藤堂君に手渡す。


「すみません」


 ペコリと頭を下げてそれを受け取ると、ゆっくりと腫れた口元へとあてた。


「折角のかっこいい顔が台無しだね」


「今、洗面所の鏡で見たら結構腫れてたから、自分でもビックリした」


 ヘヘッと笑いながら、10帖程度の部屋を見回している。


「そんなに、興味あるの?」


 好奇心の塊のような瞳に問いかける。すると彼は、「1人暮らしの人の部屋にあがるの、初めてだから」とまた笑った。


「先生はさ、なんでこんなに帰り遅かったの?」


 ソファへと腰掛けながら、問いかけてくる。その瞳がガラステーブルの上の情報誌に注がれているお陰で、僕の動揺は気付かれなかったようだ。


「……院長と、飲んでたんだよ」


「院長? ああ」


 目線を上にあげ、納得したように頷く。


「あの先生ってさ、若くない? 先生とあんま変わんないでしょ?」


「僕より3つ上だから31かな。もうすぐ『お父さん』になるんだよ」


「へぇ」


 興味を示した彼は僕を見上げ、ニッコリと笑った。


「いい親父になりそうだもんね。――そっかぁ。じゃあ久坂先生と俺は、11歳も違うのか」


 そう言うと、情報誌を手に取ってパラパラと捲りだした。


 『いい親父』という言葉に胸が痛む。本当は、叫び出したいくらいだった。


 ネクタイを外し、ボタンを緩めた。


 ――なんだか、息苦しい。


「コーヒーでいい?」


 そう言いながら、ケトルを火にかける。自分の声が普段通りなのが、不思議でならなかった。


「うん。ありがと」


 1度顔を上げた彼は、すぐさま雑誌へと視線を戻す。


「これさぁー、酷いと思わねぇ? この『カップルの定番』っての。男同士じゃ行けないじゃん」


 雑誌の中の1ページを指差し、グチるように話しかけてくる。


「どれどれ」


 上から覗き込むと、それは若い女性に人気があるテーマパークの記事だった。


「そんな事ないだろう。男同士で行っても別にいいんじゃない?」


「先生はここ、行った事ある?」


「んー。随分昔に。家族で」


「そっかー。そん時、男同士で来てる奴等とかいた?」


「どうだったかなー? でも、いたと思うよ。何? 行きたいの?」


「うん。……ちょっと」


 語尾を小さく呟いた彼は、手早くページを捲った。


「女の子と、行けばいいじゃない」


 何気に言った言葉に、ページを捲る彼の手が止まる。上からでは顔は見えなかったが、捲ろうとしていたページは、中途半端なままで動きを止めていた。


「……女なんか」


「えっ?」


 一瞬震えたように見えた手が、再びページを捲る。


「あっこれ。美味そー」


 何事もなかったように、彼の手はラーメン屋の記事で止まった。


「……今度、連れて行ってあげようか?」


「え? マジ? でもここ、こんなに有名になったら混んでんじゃないかなー。平日とかでも、行列出来てたりして」


「じゃなくて。さっきの」


 言うと彼は、バッと顔を上げて、信じられないといった表情をした。


「――マジで?」


「うん。本気で」


「男2人で行ったら、変な目で見られるかもしんないよ?」


「いいじゃない、別に。僕は平気だな」


 顎を突き出すようにして言ってやると、嬉しそうな笑顔を浮かべる。


「じゃ、俺も」


 しばらくは黙ってページを捲っていた彼は、「ねぇ、先生」と視線は上げずに呟いた。


「俺、最近さ。女って気持ち悪いとかって思うようになってきたんだけど。これって異常?」


「…………」


 なんと答えていいのか、判らない。同性を好きになっている僕が、彼を異常だとかそうでないとか、言える筈もなかった。


「母さんがさ、よくあいつに媚びるような真似するんだ。色目使うって言うかさ。甘えたような声出したり……。もう俺、それが気持ち悪くて、近頃は見てるだけで吐きそうになるんだ」


「それは……」


 母親だって女性なのだ。好きになる男性もいるだろうし、相手の気を惹きたいとも思うのだろう。


 だが彼は、息子としては、そんな母親を受け入れられないに違いない。


 自分の母親が他人に色目を使っているサマを想像して、少し気持ち悪くなる。


 両方の、気持ちが解るような気がした。


「んで気付いたらさ、クラスの女とかも結構そんな目を向けてきたりとかしてんだよ。話してても、変な声出してきたりとか……。俺にとっては、気持ち悪い以外の何物でもないのに」


 嫌悪に彼の声が震える。


「それなのにさ、溜まるんだ。男だから」




 ―― 『なあ、キスした事ある?』




 彼の声に、あいつの声が重なる。あまりにリアル過ぎて、今、彼に言われているのかと思ったぐらいだ。


「イヤなんだよ、もう。こんなの――」


 くしゃりと前髪を掴み、その腕で顔を覆う。


「まるで病気みたいにさ、『したい、したい』って思ったりするんだ。それなのに……」


「女の子とするのは、気持ち悪い?」


 ピクリと彼の肩が反応する。顔を上げないその態度が、僕の言葉を肯定していた。


「異常じゃない」


 僕はそう呟いて、彼の前に屈み込んだ。


「異常なんかじゃないよ。君ぐらいの歳にはね、溜まって当然。セックスに興味を持って当然なんだ」


 顔を隠している腕を、そっと引き剥がす。戸惑いと羞恥に潤んだ瞳は、しかし真っ直ぐに僕を見返した。


「ほんとに?」


「うん。僕にも経験がある」


「マジで?」


 彼の目に好奇心が甦って、思わず笑ってしまった。


「……ねぇ。キスした事ある?」


 あいつと同じ台詞を吐く。見開かれ、揺れた瞳に、ゆっくりと顔を近付ける。あいつがしたように、頬にそっと掌で触れた。


「――なあ。先生」


 唇が触れようとした時、彼の刺すような声で我に返った。顔を離した途端、彼の指先が鎖骨のすぐ下に触れる。


「これって。 ……『アレ』だよね」


 彼の指が、何に触れているのかは見なくてもすぐに判った。




 ――赤い痕。




 それをなぞるように、ゆっくりと指を動かしている。


 バッと彼から離れ、襟元を掻き合わせた。


 迂闊だった!


 驚愕に呆然としていた彼の顔に、怒りが浮かぶ。


「院長と一緒だったって言ってたよね? それに、もうすぐ父親になるんだって」


 両手に拳を握り、一旦堪えるように膝に置くと、すっくとそのまま立ち上がった。何も言わずに、ジャケットを掴んで廊下へと歩いて行く。


「ちょっ、ちょっと。藤堂君」


 慌てて追いかけ、廊下でようやく腕を掴んだ。


「触んなッ!」


 振り払うように、彼が暴れる。


「ちょっと、話を聞いてよ」


「お前等ッ、最低だッ!」


 振り返り、叫んだ拍子に彼の唇の端が再び切れて、細く血が流れた。


 キッチンのケトルが悲鳴をあげ、玄関が大きく音をたてて閉まる。


 ポツンと。


 出て行く時に彼が引っ掛けた僕の靴が、乱れて転がっていた。




 ――本当に。最低だな、僕は。



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