十四


「ねぇ先生。何考えてるの?」


 ドキリ、とした。すぐ後ろで、藤堂君の気配が佇む。


「別に、何も。今日は紅茶でいい?」


 振り返れない。


 普段はすぐにソファへと座り込むのに、今日に限って、離れる様子がなかった。


「なんで俺から目、逸らせんの?」


 不安そうな声。


「俺の事、嫌いになった?」


「何、バカな事言って」


 笑いを零したが、それは空虚なモノでしかなかった。


「――なら。またあいつと、したの?」


 唐突な指摘。


 低く問いかける声に、ピクリと体が震えてしまう。


 気まずい空気だけが、僕等を包んだ。


「否定しないんだ?」


 失笑を含んだ言葉が、胸に突き刺さる。


「先生。こっち向いて」


 この前のように、飛び出して行ったりはしない。その代わり、いつもより低い、大人びた声で僕に命じた。


 ゆっくりと振り返る。その途端に、藤堂君の指がネクタイに掛かった。


「ちょ、ちょっと……」


 止めようとする僕の手を振り払い、黙々と手を動かす。無表情な顔、怒気を含んだ指の動きに、手が出せなくなった。


 ネクタイを解いて、ボタンを1つ1つ外していく。そして『あの場所』に、赤い痕を見つけると手を止めた。


「何? 休診日の前の日は、こーゆう事する日とでも決まってんの?」


 嘲笑を含んで震えた声が、俯いたままで吐き出された。


 そしてガンッと、強く握った両拳で僕の胸を叩く。


「――もう、勘弁してくれよ。こんなの」


 弱々しい声。顔を埋める彼の拳が、震えていた。


 踵を返した彼は力なく、教科書類を手に取った。


「どこ行くの?」


「どこでも。ここじゃない場所」


 もういつものような覇気はない。心底疲れた様子で、廊下へと向かった。


「僕の事、嫌いになったの?」


 追いかけるように声をかける。


「…………」


 目の前に立っても、彼は俯いたままで顔を上げなかった。


「もう顔も、見たくないの?」


「…………」


「ねぇ、もう口も」


 ききたくない? と続こうとした台詞に、バッと顔を上げた。


「じゃあなんでッ、こんな事すんだよッ!」


 叫ぶと同時に、涙が溢れ出す。頬を伝うのも気にせず、教科書を床へと叩きつけた。


「あいつは夢にも思ってないって言ったじゃないか! あれも嘘なのかよッ!」


 その台詞に、カッと一瞬にして頭に血が上る。


「しょうがないだろッ! 思い出してたんだからッ!」


 君が言わなかったら、夢だと思ったままだったかもしれないのに――。


 その言葉を言わないだけの、理性が残っているのだけが、まだ救いだった。


「しょーがないって何? 思い出してたから! しょーがないから! またやったとでも言う気?」


「違うよ」


「じゃあ、やりたくてやったんだなッ?」


「そうじゃないけどッ」


「じゃあ何ッ? 俺が言った事、解ってくれてたんじゃねぇのかよッ?」


 バカ野郎ッ! と叫ぶ彼の声に目を剥く。


「君の考えを、僕に押し付けないでくれッ」


 2人共興奮して、まともな話が出来ない。


 お互いの怒鳴り声だけが、凶器のように互いを傷つけ合っていた。


 違う、違う。言いたいのはこんな事じゃない、と声を落とした。


「そうじゃないけど。……でもずっと、好きだった人なんだもの」


 驚愕に、藤堂君の目が見開かれたのが判った。


 驚きだけなのか、侮蔑の色が含まれるのか。


 知りたくなくて、視線を落とす。


 沈黙の中。


 ポトリとそれは、確かに聞こえた。


 絨毯へと落ちた涙に、思わず視線を上げる。ゴシゴシと袖で拭った目は、それでも溢れる涙で、すぐに濡れてしまう。


 先程よりも多く流れる涙に戸惑っていると、潤んだ瞳が僕を睨み付けた。泣いていても人は、こんなにも強い視線を向けられるものなんだと、初めて知った。


「じゃあなんで。俺に、あんな事したんだ」


 感情を抑え込んだ、低い声。


 それがキスしようとした事だというのは、すぐに判った。


 判ったが、答えられない。


 この前のように、判らないフリで誤魔化す事も出来ない。


 だって。なんて言ったらいい? 昔好きだった初恋の人に、君が似ていたからだとでも?


 そんな事を言ったら、初恋の相手すらも男だとバレてしまうじゃない。


 君は、気持ち悪がるんだろう?


 きっと「女って気持ち悪い」と言った時と同じ顔で、僕を見るんだろう?


 ――『今』 は君が好き。


 だから、君のそんな視線には、僕はきっと耐えられない。


 いつまでも答えを出せないままで、その沈黙を破ったのは、彼の大きな溜め息だった。


 心底呆れたというように、首を振る。


「あんた。結局誰でもいいのかよ?」


 投げやりな、冷たい台詞。


 その言葉に、再び体温が上がる。


「そんな訳ないだろッ!」


 怒鳴り返した僕に、彼は負けじと声を張りあげた。


「じゃあなんだ! 言ってみろッ!」


 もうグチャグチャだ。


 冷静な判断も、冷静な会話も、出来やしない。


『今は君が好き』


 その言葉だけでも伝えたいのに、嫌われるのがイヤで、言葉に出来ない。


 ――今更。嫌われるも何も、ないのに。


 自嘲に笑いが洩れる。しかしそれは、彼を煽るには絶大な効果があった。

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