十六


「先輩、奥さんお元気ですか?」


 スタッフルームのソファ。そこに寝転び、間近に迫った顔を見上げて、僕は問いかけていた。


 案の定、心底嫌そうに目の前の顔が顰められる。


 藤堂君を初めて怒らせた時もそうだった。あの時も、心底嫌そうに顔が顰められた。


 彼から連絡が途絶えて、2週間が経つ。


 あの事件のあった翌日の朝早く、教科書を持って訪れた自宅には、人の気配はないままだった。




 『これ見たら連絡下さい』




 教科書を入れた袋にメモを入れ、ドアに引っ掛けた。


 するとその日の夜、自宅のチャイムが鳴った。


 きっと藤堂君だと思って勢いよくドアを開けてみると、そこにいたのは安永君だった。僕が、藤堂君の家のドアへと掛けた袋を持っている。


「コウから、身の周りの物持ってきてって、頼まれて来たんです」


 そしたらコレがあったから、と小さく袋を持ち上げた。


「……先生、僕との約束。破りましたよね」


 ――居酒屋で交わしたあの約束。藤堂君を泣かせないでという、安永君の願い。


 それを僕は、守れなかったのだ。


 玄関の外に立ったまま睨むように一瞬僕を見上げて、彼は視線を伏せた。


 また泣かせたでしょう? と、その瞳が言っている。


「コウは今、うちで寝てるんです。熱があって」


「えっ、大丈夫なの?」


 驚いてしまってから、ああ、昨日寒空の下で勉強していたからだ、と思い至った。なぜあの時に、もっと温くしてあげなかったのかと自責の念にかられる。


「大丈夫ですよ。只の風邪ですから」


 そう言って少し笑った安永君は、僕を見上げて問いかけてきた。


「コウの家の事、少しはご存じなんですよね?」


「……うん」


「実は、おばさんは元々、コウのケガを疑っていたそうなんです。あの男が負わせてるんじゃないかって。それで昨日、家に帰ったらまた コウがいなくなってたから、問い質したそうなんです。そしたら、あの男が急に逆ギレしたらしくて……。ビール瓶で、額を殴られたって言っていました。5針縫ったそうです」


 女性の顔に、5針も縫う程の怪我を? と絶句する僕に、安永君は「ええ、そうですよ」と当然のように頷いた。


「結局、飲み屋なんてモノは、そんなモンなんです。殴り合う客もいれば、店で暴れる客もいます。そういう店を経営しているオーナーもそうです。すぐに暴力を振るう人も、少なくないですよ」


 フッと笑いを洩らした安永君は、言葉を足した。


「俺はこの前、居酒屋の雰囲気を好きと言いましたけど、それでも時々2階にいると、1階から騒ぐ声や物の割れる音が響く時があるんです。本当にごくたまになんですけど。そういう時は当事者でもないのに、言葉では説明出来ないくらい心臓が痛くなるんです。ベッドで寝ていても、 寝れないくらいに。


 でもうちは、その後母さんが2階に上がってきて、揉め事が済んだ事を教えてくれるんです。『もう大丈夫よ』って。だから、僕は安心出来ます。でもコウには、そう言ってくれる人も、そう言ってあげられる人もいないから……。コウは、当事者なのに。――先生、解りますか? コウが言ってた、『住む世界が違う』っていう意味」


「僕が、飲み屋の世界を理解していないから?」


 それとも、血塗れのお母さんを見て――5針も縫ったと聞いて、僕がひいてしまうような人間だから?


 僕の答えに、安永君は静かに首を振る。


「俺も、はっきりとは解らないんですけど。……たぶん違います。コウが言ってるのは、生き方の質とか、清らかさだとか、気高さとか、正しさとか、きっとそういった事なんです。あいつは少し、自分や自分の生活を、卑下している処があるから」


「そんなもの……」


 そんなものはない。僕に『清らかさ』なんて、『正しさ』なんて、微塵もない。それは、藤堂君が1番よく知っている筈だった。


「俺は、コウが先生といる時だけでも、誰にも気兼ねする事なく『今は大丈夫』って思ってくれたらいいと思ったんです。……でもそれは、間違いだったのかもしれません」


 その台詞に何も言い返せずに黙っていると、安永君は顔を伏せた。


「俺が言うべき事じゃないですね。それを決めるのは、コウ自身なんだから」


 ペコリと頭を下げる。


「これは、ちゃんとコウに渡しておきます」


 そう言って、もう1度袋を持ち上げた。


「……ねえ。藤堂君は、もう家には戻って来ないの?」


 歩いて行こうとする安永君に声をかける。すると彼は「判りません」と首を振った。


 それからは、自分からはメール出来ないでいるクセに、藤堂君からのメールを受信しない携帯電話を只、玩ぶ時間だけが増えていた。


 寂しさだけが増していく。先週はそれに耐えきれずに、また先輩と体を重ねてしまった。そしてその後に押し寄せたのは、これ以上ない程の後悔と、深い罪悪感。




 ――更なる、『孤独』だけだった。





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