第40話 モンパルナスのオレとレオ
お、ジムノペティじゃないか。懐かしいな。
レオナールやキキなんかと一緒に、モンパルナスのアパルトマンでエリックの弾く音を聴いたもんだ。
今夜のルナは朧に暈のマントを羽織ってるな。
こんな気怠い夜に聴くにはもってこいの曲だ。
レオナールを知ってるかい? オレはヤツをレオと呼んでいたんだ。遠い島国から来た人間の雄だ。男ってやつだな。その界隈に生まれた奴らとは毛色が変わった男だったな。
キキもそうだがオレはよくヤツの絵のモデルになってやったもんだよ。やたらと猫の好きな人間だったな。いやそれ以上に自分自身が好きだったな。オレと一緒の自分の姿をよく描いていたよ。だけどなんかいっつも同じ視線と表情さ。
そもそもオレはアメディオと一緒にラビニャン通りの「洗濯船」から「蜂の巣」に越して来た。洗濯船もそうだったが蜂の巣も絵を描く人間が多かったから、オレは人間を絵を描く生き物と思っていた。隣の部屋のレオもよく生白い肌の女を描いていた。オレは退屈すると作業の邪魔をしてやったけどレオは全然堪えないヤツだった。
繕い物なんか年老いた女のする事だと思ってたんだが、レオはよく何だかを編んでいたよ。毛糸玉を転がすのに飽きると、オレはたまにそれを机の下から覗いてたんだ。そして無心に手を動かしていたレオと目が合うとわざと知らんぷりしてやるのさ。伸びをするのも忘れずにな。
オレとレオは気が合っていたと思う。
風がプラタナスの枯葉をさらう冷たい季節以外は、ヤツとよくモンパルナスを散策したよ。セーヌの川っ沿りなんかはオレたちの縄張りさ。腹を減らした痩せ犬くらいなら怖くはない。春や夏の川風は気持ちいいが、臭いはそんなに好きじゃあなかった。
たまにはキキやアメディオも一緒に歩いた。そんな時は彼らは決まって「ラ・ロトンド」ってカフェで湯気の立つカップをすすりにゆくのさ。それから何時間も声を交わして退屈を紛らわせていたよ。人間は猫と同じくらい暇な生き物だな。ま、暇だからといって猫は絵など描きはしないけどな。
キキはいい女だったかって?
アンタ、そんなの猫に聞く事じゃないだろう。
まぁ強いて言うなら、ありゃ思わせぶりな黒い猫だな。男どもにはちやほやされていたよ。
アメディオの方はどんな男だったかというと、貧乏で病弱だったからな。不遇だったかと言えばそうかもしれないが、気遣ってくれる伴侶もいたのに、酒に溺れたりしてたからな。
美味いのかい? 酒ってのは。
とにかく不摂生が祟って若死にしちまった。
可哀想だったか幸せだったかなんて、人間の生き方は猫のオレには分からない。
アメディオの描いた絵はレオの生まれた国にはたくさん有るんだってな。確かレオナールがモデルのデッサンが、ホッカイドウってとこにあるらしいけど今でもあるのかい。男前のオレがモデルの絵は今は何処にあるんだろうなぁ。
お前は長生きなのかって?
ふふふ、どうだろうな。
1895年のモンパルナス駅の事故を覚えているかい?
オレはちょうど駅前の通りからエントランスを横切ろうとしていたんだ。そこから二つ先の街燈の下に、オレのお気に入りの娘がいるのに気がついて、足早に駆け寄ろうとしたその時に、恐ろしく喧ましい音と共に車輪の付いた鉄の塊が、頭の上の壁を突き破って落ちて来たのさ。あれには驚いたね。気がつくとその様子をオレは空の上から眺めていたよ。あれから何年経ったことやら…… 。
おおっと、もう曲は終わってるじゃないか。躰も幽んできた。少し話過ぎたかな。今夜の娑婆はやけに冷えるな。それじゃあオレは帰るとするよ。あばよ人間。アデュー。
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