第38話 峠
その夜、俺は峠を越えなくはならなかった。
山間のその路は隣の県に続いているのだが、麓から峠を越えて山を下り切るまで人家は一軒もない。
路は舗装されてはいるのだが、片面は崖になっており、路幅は狭く軽自動車がすれ違うのがやっとの路だった。
生い茂る藪と樹木で鬱蒼としており、昼間でも暗いだろうその路には灯りは一つもないのだ。夜半に路を通る事を元々想定していないのだろう。
こんな道は早くやり過ごしたかったのだが、事故を起こしたくもなかったので、徐行とまではいかないが、かなりの低速で坂道を登っていた。
緩やかに蛇行している登り道も時折直線があった。山の中腹辺りに差し掛かった時の事。ハイビームにしてあった前照灯が10メートルほど先を走る単車の様な姿を映しだした。
バイクの様なエンジン音は聴こえてこない。相対速度からしてもどうやらそれは自転車の様だ。
こんな真夜中に自転車で暗い峠を越えようとするなんて、物好きにも程があると思ったが、車とは言え自分もこうして峠道を走っている。まぁ何かしらの事情があるのかもしれない。
遠目に見ると、運転している者は振り向いてこちらを意識している様なのだが、ペダルを漕ぐ事は止めずにいる。妙に危なっかしい。顔はこちらを向いたままなのだ。
カーブ有りの黄色い標識をやり過ごした。
もう直線でなくなるのは分かるだろうから、その男もさすがに前を向くだろう。
そして一分もしない内に、距離を詰めた自分の車はその自転車に追いついた。
ロードレーサーに乗る男の緑色の姿がライトに照らされてハッキリ分かる。男の顔もハッキリと分かる。未だにこちらを向いている男の顔が分かる。だが男は振り向いてなどいるのではなかった。車の前にいる自転車の男は不自然なほど真後ろを向いていた。
右腕はハンドルを握らす垂れ下がり、その指先は今にも路面に当たって擦れそうだった。
男の顔が傾げてゆき真横に傾いた。
その口からどす黒いものが滴り落ちる。
「あーーー…… 」
俺はブレーキを踏んだが間に合わず、カーブを曲がり切れずにガードレールを薙ぎ倒した。
衝撃でエアバッグが噴出する。
顔と胸がハンドルに叩きつけられ反動で後頭部をシートにぶつけた。それでも俺の足は硬直した様にブレーキペダルを踏み続けた。そして崖の手前のわずかな余地で車は停車した。
助かったと思った。
俺は気を失いかけていた。
意識が遠のいてゆく。その僅かな瞬間、横を向いてしまっていた顔の俺の双眸は、ドア越しに覗き込む男の顔を見た。
暗く虚な意識の中にあるあの自転車の男の顔。
じっと俺を見つめている。じっと…… 。
深く割れてぬめついた傷が額や頬に幾つもついた顔を傾げながら。じっと…… 。
残念そうなその顔を俺は一生忘れる事はできないだろう。
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