第41話 小町哀歌

「かぎりなき想ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ。なぁ、この歌いいと思わないか」


背の高い人でした。

ハンサムかどうかは分からないけど、近所の女の人には好意的な眼差しで見られていたのを、ワタシは知っていました。

あの人が大好きでした。声とか匂いとか。何よりワタシに優しいところが。それが一番何より。あの人との安らかな日々をワタシは愛していたの。


彼は古文の先生をしている人でした。

あの人が学校で仕事をしている平日の昼間は、この家にはワタシひとり。

夜半、だいたい暗くなってからあの人は帰宅する。

それからワタシたちは一緒に食事の時間を共にするの。

彼はその後も机に向かって仕事をしている事もあった。黙々と何かを調べている事もあれば、何か言葉を声に出している事もある。


「なぁ、こっちの歌とこれだとどちらがいいと思う?」


あの人は何か迷うとワタシに訊いてきたりする。

ワタシは書かれたペーパーを指し示して一言だけ言うの。


「こっちね」


そう言うと、彼はニッコリと笑う。

そんな事がよくありました。ワタシの好きな事の一つ。


それが一段落した後にワタシたちは束の間寛ぎ、リビングから寝室に移り同じベットで朝を迎える。

鳥たちが騒ぎ出す頃、彼を起こすのがワタシの役目。あの人に顔をすり寄せて柔らかく声を掛けるの。


「朝よ」


あの人は仕事に行く前に、ワタシと近所の庭園まで散歩に出かける。ほんの短い時間だけれど、ワタシはそれが何より嬉しかった。あの人はよくワタシの方を見て微笑んでくれる。朝の輝きの中、季節に咲く花々の話をし、海や山や海外の話をし、ワタシを旅行に連れて行く約束をしてくれる。朝はワタシがあの人を独り占め出来る時間だった。


家でもそうだったけど、あの人はたまに幾人かの生徒や仲間を家に迎え入れる事があった。歌会という事だった。唯、誰か一人ということはなく、必ず男女入り混じって皆でお茶を喫んで歌を詠んだりしていました。


ワタシはそれがそんなに嫌いではなかった。

ワタシがいることは彼が事前に話しているのだろう。ワタシが温かく迎え入れると、ほとんどの人が優しく接してくれる。


唯、その生徒さんの中に、一人だけあの人に熱い眼差しを送る若い女性がいる事が、気になっていました。


最近、あの人の帰宅する時間が遅くなってきていた。

そして、殊更疲れた様な、ある時は怒気を孕んだ顔つきで戻ってくる日が続いた。

電話で誰かと諍いをしている事も度々あった。


(大丈夫なのかしら…… )


ワタシは心配になり寄り添ったりしたけど、だんだんと無視される日が多くなっていった。


話をしてくれる事も少なくなっていったの。


ある日、あの人は血の匂いをさせて帰って来た。


何度かこの家に来たことのあるあの女の匂いだった。


青褪めて憔悴しきった彼は、タオルに包まれた小さなナイフをテーブルに置き、その悔恨と苦悩の表情はやがて放心に変わり、寄りかかっていたソファから床に倒れ込むと、気を失う様に眠ってしまった。


ワタシはテーブルの上からそっとナイフをもち去って静かに家を出た。


ワタシはその凶々しい物を、誰にも知られないであろう場所に隠してあの人の元に戻った。


目を覚ましたあの人は、ナイフが無くなっているのに気がつくと家中を探して回った。ワタシはリビングのソファに座ってその姿を黙って見ていました。

閉め忘れた玄関の扉を開けてそして閉める音がした。

やがて彼はワタシの元にやって来て、かすれた小声で名前を呼んだきり黙ってワタシの顔を見つめていた。刺す様な視線だった。ワタシも彼の顔を見つめ返した。あの人はそれで悟った様だった。ワタシがナイフを隠した事を。


後日、二人の男が訪ねて来た。

「ある女性について貴方に訊ねたい事があります」

あの人を疑っている刑事がやってきたのだ。

短い話ではなかった。ワタシは静かに様子を伺っていました。あの人の生徒の一人が河川敷で出血死していたとの事です。ナイフによる殺害だと告げている。あの人は動揺して青ざめた顔をしていました。男たちはそれをどう捉えたのだろう。疑っている様子だったけど、凶器が見つからなければ、あの人は捕まったりはしないだろう。もうこの家にはあの血の臭いはしていない。気づきはしないと思う。


しかし、もっと遠くに隠した方がいいのかもしれない。あの人が出勤した後、しばらくしてワタシは家を出ました。それから隠しておいたナイフを掘り起こした。もっと遠く離れた場所に隠す事にしました。

人目につかない様に。初めて行く山の奥へ歩いて行った。廃屋を見つけてそこに留まる事にしました。


ここでひとりナイフを見守っていれば、あの人が捕まる事はないだろう。人が来ればナイフをもって逃げればいい。今は疲れたからひとまず休む事にした。埃っぽい部屋のカビ臭い絨毯。もうあの安らぎの部屋には戻れないだろう。悲しみがワタシの心を押し潰してゆく。


その夜、ワタシは夢を見ました。あの人がワタシに逢いに来る夢。ワタシの身体を抱きしめて何度も撫でてくれた。ワタシの名前を何度も呼んだ。


夢から覚めて目を開けるとそこは唯、闇ばかり。


どこまでもどこまでも明かりのない世界が広がっている。どこまでもどこまでも……

それならば目を閉じていても変わりはしない。

いや、もう一度眠りの中に戻ればあの人が逢いに来てくれるかもしれない。あの人に逢いたい。声に出してみる。いつもの様に甘えてみる。優しい愛撫をねだってみる。今出せる限りの声を絞り出して、あの人を呼んでみる。夜陰にワタシの声だけが谺する。

疲れた。もう鼻を鳴らすくらいしか出来ない。限界がきているのだとわかりました。こんなワタシを咎める人はもう誰もいないでしょう。疲れました。ワタシは、ワタシは静かに目を閉じた。

雨が匂ってきた。どれほど経ったのかはしれない。しれないけど聴こえてきた。聴こえてきたの。


(かぎりなき想ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ)


あの人の声だ。ワタシは伏していた床から顔を上げた。逢いに来てくれたのだ。


(この歌はね、小野小町って昔の人の歌だよ。オマエと同じ名前の人だ)


ああ、その歌の人はヒト。でもワタシは……


(おいで、コマチ。散歩の時間だ)


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