第32話 サヨナラ・クリスマス
「御明算!」
そこは小学校の教室の四分の一ほどの広さ。部屋は畳敷きで掃除はピカピカに行き届いている。だけどくたびれた蛍光灯が何本かジリジリと音を立ててふてくされている。もう何処を探しても売ってはいないだろうくらいの旧い長めの机が八脚。傷だらけでシンちゃんのシールなんかも貼ってある。窓際に机四台、真ん中は一人分の通り路をはさんで反対側に四台。
ヨシコは窓際の二列目。ボクは反対側の四列目に座っている。先生は今年最後の問題を読み終えて後ろから正面の教卓へ向かう。
二年生の頃から習っている算盤。今年は今日が最後の受講日。クリスマスとあって低学年は早めに切り上げていたので、ヨシコとボクの二人しか残っていない。二人がこの珠算塾今年最後の生徒になった。
「それでは、今年はこれで終わりとします。ヨシコ、マサトシ、ありがとね」
先生はかしこまった趣きで、だけど親しみを込めた柔らかな口調でそう言うとボクたちの顔を順番に見た。
「二人ともちょっと待っててね」
先生は軽くメガネの位置を直すと奥にある二畳ほどの給仕室へ消えていった。
ボクたち二人はソロバンとテキストをバッグにしまいながら顔を見合わせた。
「じゃ〜ん!」
ほどなく戻ってきた先生の手には和盆に載った細長いチョコレート色のケーキだった。
「オ〜ゥ!」
ヨシコは目を見開いて両手で口を覆った。
板チョコのネームプレートには白い文字でyoshikoと書かれている。
「先生ね、今日が誕生日だから生徒のお母さん方が気を遣って毎年ケーキをくれるの。今年はブッシュドノエル、丸太型のケーキね」
「あ、先生、お誕生日クリスマスなんですね。お誕生日おめでとう」
「ハッピーバースデー! センセー」
「ありがとう。でね、コレ私一人じゃ食べきれないよなーって。ウチの娘たちは地方で働いてるからお正月じゃないと帰ってこないのよ。ね、食べようよ三人で」
先生は少しはしゃいでいる感じがする。いつも指導している時の先生は真剣な表情でよく言うしかめっ面。そんな先生のにこやかな顔はあまり見た事がない。昼の部の未就学児には笑顔で教えているのかもしれないけど、ボクら高学年には厳しい。気を抜いていると置いていかれる事もある。
「名前、嘉子だからヨシコちゃんと読み方同じね。この部分はヨシコちゃんにあげるね」
「センセー、ダメ!センセー、バースデー」
「いいのよ。記念よ記念!さ、さ、分けるわよ。マサトシ君は少し大きめでも大丈夫だよね、ハイ、これ」
チョコレートケーキ。クリスマスケーキ。こんな豪華でステキなケーキは何年ぶりだろう。ボクの誕生日にはプレゼントはもらえるのだけど、ケーキといえばショートケーキ。一人っ子のボクには大きなケーキは持て余してしまう。それを知っている母さんはボクの分のイチゴのショートケーキ一つだけを用意するんだ。母さんはケーキ好きじゃないから。でも食べなくてもいいから二人分用意して欲しいんだ。その方がお祝いしてくれている気がするから。ケーキはやっぱり豪華な方がいい。食べ物だから美味しい方がいいに決まっているけど、やっぱり豪華に見える方がいい。すっごいわがままだって分かっているけど。
ヨシコを見るとケーキを見つめながら感激してモジモジ体を動かしている。ノドなんか何回もピクピクしている。ヨシコもちょっと興奮してるんだな。
クリスマス。こんな日にソロバンの学習塾なんて、なんだかちょっとガッカリしていたけど、これはホントにボクらへのサプライズって感じだよ。
「あ、じゃあ食べよっか! 食べよう食べよう」先生は自分のケーキにフォークを入れた。
「イタダキマース!」
チョコレートのクリームの中にフォークはスルッと入ってゆく。その内側の部分もふんわりとした弾力で、ボクはこれから口の中に運ばれるその茶色い一カケがたまらなかった。
うん、やっぱり美味しい。お母さんには悪いけどダンゼンこっちのが美味しい。こんな美味しいケーキ何処で売っているのだろう。こんなケーキを作れる人はすごい修業をした人なのかな。
そういえば夏休みの工作はクラス前の廊下に並べられるのだけど、ヨシコのは紙粘土で出来たフルーツケーキだった。白い土台に乗った山盛りのフルーツはカタチも色々で色も鮮やかでテリテリに輝いていた。
題は「ぱてしえーるになる」って書かれていた。後でここで会った時「ぱてしえーるって何?」って聞いたらデザートを作る人の事らしい。つまりはケーキ屋さん。ヨシコにはもうそんな夢があったんだ。ボクにはまだ将来のことをはっきり考えた事がない。ソロバンを使う仕事ってあるのかな。
あらかたケーキを食べ終えた時、先生はコップにジュースを注いでヨシコとボクに渡した。
「ヨシコちゃん、帰る日は決まったの?」
先生はヨシコの方を見て話しかけた。
帰る日とはなんだろう。
「……フユヤスミノアイダニ…… 」
ヨシコは少し目線を下にしていた。
「そうなのね・・寂しくなるわね」
先生は今度はボクの方を向いた。
「ヨシコちゃん、お父さんの仕事で自分の国に戻るんですって。マサトシ君、クラス違うんだっけ?」
ヨシコがフランスに帰る……
ボクは改めてヨシコを見た。そんなことなぜ。学校は?もうこの塾には来れないということ?
ヨシコのお父さんはフランス人で仕事はコックさん。フランスで日本人のお母さんと結婚した。ヨシコはフランスで生まれたと言っていた。仕事のため日本に来てもう四年になる。ボクとはまだ一度も同じクラスになったことはないのだけれど、近所なので登校班は同じだし掃除の縦割り班も同じ。この塾で毎度顔を合わせている。育成会のボーリング大会で同じレーンで投げた事もあった。クラスは違うけどヨシコとは何かと同じグループにいる感じだ。
ヨシコは日本人のお母さんがつけた名前だけど、見た目はお父さんに似て黒人で髪の毛もクルクルしている。本人は何も言わないけど、ちょっといじめられていたみたいだ。フランス人って白人ばかりだとほとんどの日本人は思っているからかもしれない。
学校で顔を合わした時にヨシコは必ず笑顔で「ハーイ!」と声を掛けてくれる。ここでもそれは同じ。五年生の頃は気恥ずかしかったけど、今は慣れたし英語の下手さがボクと同じくらいなのもちょっと嬉しかった。
「ヨシコちゃん、ソロバン忘れないでね」
その言葉を聞いたあと、ヨシコの目から大粒の涙がぼろぼろとぼろぼろとこぼれ落ちた。涙があふれるってほんとにあるんだ。
「センセー……センセー……ワスレナイ」
ボクはどーしようもなくなった。頭の中は何も考えられなくなって、身体中が熱くなって
それが溜められなくなって目から溢れて出てきた。ボクの涙も大粒だった。
明日、餅つき会の話をしようと思ったのに。
寒中マラソンの話をしようと思ったのに。
スケート大会の話をしようと思ったのに。
中学では同じクラスになるかもねって思っていたのに…… 。
ひとしきり泣いたヨシコは落ち着きを取り戻してからボクの方を向いた。
「マサトシ、コレ、フシミアゲル」
ヨシコはそう言ってボクの右手をつかむと、ポケットから取り出した小さな白いモノを手のひらにくるませた。
それは横を向いて座っている白いキツネだった。耳と口と前掛けだけが赤いキツネのお飾りだった。
「フシミイッタオミヤゲ、ズットワタセナカッタ…… マサトシ、ショウバイハンジョウ!ソロバンパチパチ!」
そう言ってヨシコは指を弾いて笑った。
ボクも笑った。
三人で外に出た。白い息。月は半月。
ボクたちは下駄箱からクツを出して地面に放った。先生は小さく「コラッ」と言って微笑んだ。
「アデュ、センセー。アデュ、マサトシ」
「アデュー?分かんないけど、ノー、ヨシコ。ヨシコ、ショウバイハンジョウ!ぱてしえーるハンジョウ!」
「ソロバンパチパチ!」
ヨシコは指を弾いて微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます