叛乱の鎮圧を任されていた章邯しょうかんが寝返ったという報せに、咸陽かんようは揺れた。章邯軍が押されているとは聞いていた。しかし進退窮まるほどの兵力差ではなかったはずである。鎮圧に当たっていた章邯軍二十万が今は先鋒となって咸陽を目指しているとの噂で持ち切りであったが、閻楽えんがくは信じなかった。肌をさすってみても、ちくりとも痛まないのである。

 執務室で昼食をとっていると、丞相じょうしょうの使いがやってきた。つまりは舅からの呼び出しである。宮廷に設けられた丞相の居室ではなく、舅の私宅へ来るようとの言付けを受けた。まだ食事を始めたばかりであったが、衛兵二人を伴って、舅の邸宅へと向かった。腕がじんわりと痺れた。やがてひりつくなと閻楽は思った。

 おそらく誰しもが清く生きられるものならば、そう生きたいと願っている。しかし、現実は甘くない。どう生きるか以前に、まずは命があってこそである。閻楽はそう思い、無辜の者達を八名も葬った。舅が献上した鹿を馬と言わず、正しく鹿と言ってしまった者達である。自害する機会を与えた。だが、自ら命を断つ者は三人しかいなかった。残りの五人には拷問を施した。それで皆折れた。行きがかり上、自害しなかった者達の家族も罰しなければならなくなった。死罪である。そうやって首を打たれた者の中には、閻楽の子らと変わらぬ年端の者達もいた。恐ろしくなった。何かが違えば、閻楽も閻楽の子らも向こう側に行く。向こう側とは、格子の奥であり、さらに言えば、あちらの世のことである。次はどのような難題を舅からつきつけられるのか、それを思うと溜め息が漏れた。

 舅の邸宅の門のところで伴った衛兵と別れると、ひどく心細く感じた。肌がひりつく。案内の者にどういった用件であろうかと訊ねたが、わかりかねるとにべもなかった。

「義父上、遅くなりました。楽にございます」

「婿殿、ご苦労である」

 通された部屋には、舅の他に舅の弟趙成ちょうせいがいた。

「兄上、章邯将軍は叛乱軍に歯が立たなかったのでござりましょうか?」

「そのようなことはあるまい。秦兵の気質は精強であるよ。それが故、六国りっこくを併呑できた。章邯は怠慢であった。そうとしか思えぬ」

「では、新たな軍を差し向ければ、叛乱は?」

「ああ、間違いなく鎮まろう。章邯のような男は、秦軍が優勢になれば、また寝返る。それで叛乱軍は一網打尽であるよ」

 肌のひりつきはない。しかし、舅が言うほど簡単には思えなかった。それでも閻楽は下手に口を挟まない。意見を求められぬ限りは余計なことは言うまいと決めていた。

「問題はそこではない。章邯の咎を我らに押し付けようと企てた者がおる」

「どなたにござりまする?」

「わからぬ。主上の御心を煩わせぬよう、戦況は敢えてお耳に入れずにおったのに、誰かが伝えた。事もあろうか、この窮地は私が招いたと付け加えて」

「その者をすぐに割り出しまする」

「いや、それよりも先にやらねばならぬことがある」

 閻楽は舅と目を合わさぬようにずっと俯いていた。舅と義叔父の趙成と二人で事態を片付けてもらいたいと思っている。

「婿殿」

 不意に呼ばれ、閻楽は慌てて顔を上げた。

 血色の悪い舅の唇が開きかけたとき、家僕が断わりを述べて入室してきた。

「ご主人さま、望夷宮ぼういきゅうより使いが参っております」

 望夷宮とは、皇帝が現在身を寄せている宮殿である。皇帝は、自身の馬車馬を白虎に喰い殺される夢を見て、体調を崩した。涇河けいがの祟りであるとの卜占の結果に、皇帝は涇河へ赴き、白馬四頭を沈め捧げた。そしてそのまま畔にある望夷宮で静養している。

趙高ちょうこうは病で床に臥せっておる。御使者にはそう伝えて帰らせよ」

 家僕が退室すると「婿殿」と舅は改めて切り出した。

「この現況、そなたは誰が招いたものと思う?」

 閻楽も舅が招いた事態だとは思っていない。再三再四の章邯の援兵依頼をはねつけていたのは舅であったかもしれぬが、章邯の軍はそもそも充分な頭数を備えていた。援軍を送れば、赤子の手をひねるよりも簡単に叛乱軍を壊滅させることができたであろうが、新たな軍を編成すれば、それだけ新たな物資や兵糧が必要となる。踏ん張ることのできなかった章邯は怠惰であり、怯懦であったのであろう。

「章邯将軍が精勤であったなら、今頃懐王かいおうの首は荒野に転がっておったでしょう」

 今、叛乱軍を率いているのは、項梁こうりょうの甥の項籍こうせきであるが、懐王は項籍の主君である。項梁がどこぞから見つけ出してきたの王室の血筋の者が楚王を僭称し、懐王と号していた。楚のかつての懐王の孫という触れ込みであった。

「然様。章邯に今少し忍耐があれば、そうであったろう。しかし、奴は元凶ではない」

「では、叛乱軍にございましょうか? 項梁、あるいは火種を蒔いた陳勝ちんしょう

 陳勝は、叛乱の発端となった農夫である。張楚ちょうそという国を興し、自らが王位についた。その張楚は、章邯が攻め滅ぼした。陳勝は逃亡の最中、部下に裏切られて死んでいる。しかし陳勝の起こした火種が各地に飛び火して、今がある。

「すべては主上であるよ。主上に民を思いやる心があれば、陳勝も項梁も牙を剥くことはなかったであろう」

 危険な発言である。閻楽は部屋の入り口まで行って、聞き耳を立てていた者がいないことを確認した。この行為は舅の目には滑稽に映ったようである。

「婿殿は気が小さい」

 舅は呆れたように口元を歪めた。

「そうおっしゃいますが……」

 皇帝の前で言ったのであれば、諫言であるかもしれない。そうであっても罰されるやもしれぬのである。ましてや皇帝のおらぬところであれば、もはや陰口に過ぎぬ。皇帝の耳に入ったなら、舅をはじめ、閻楽までもが罰せられるであろう。

「屋敷の人間はすべて手懐けてある。今の言葉を聞いておった者がおろうとも、主上に伝える者はおらぬ。両の手を顕わにしてもっと鷹揚に構えよ」

 舅に言われて、閻楽ははじめて腕をさすっていたことに気づいた。触れていないと肌は強く痛む。しかし、舅に手を出せと言われたのでは、もうさすってはいられない。

「秦兵は精強である。しかし、このままでは勝てぬ。なぜ勝てぬか? 足らぬからであるよ。兵ではない。士気が低い。重税を課され奴隷のように扱われてきた民は、徴兵したところで主上のために命を張ったりはすまい。であるから、主上は贅沢三昧であったお暮らしを改めあそばされる」

「されど、民は信じますまい」

 義叔父が言った。

「信じぬな。それ故、号令は子嬰しえい殿下が発する。慎み深い殿下のためならば、民も戦おう」

 子嬰は、扶蘇ふその子である。扶蘇は先帝に対し、叛乱を企てたことが露見して自害しているが、民の間でも声望のある人物であった。子嬰は、父扶蘇に劣らず、評判がいい。質素に暮らしているところも皇帝とは対照的である。

「兄上、お言葉ですが子嬰殿下がお声を掛けたところで、兵の半分もその気にはなりますまい」

「やはりそなたもそう思うか。ならば、仕方あるまいな。主上は、ご自身を顧みられ、そして世を憂いご自害なさる」

 閻楽は義叔父と顔を見合わせ、それから舅の顔を見た。大それた発言が冗談ではないことは、舅のかっと見開いた目でわかった。

「幸いにも趙郎中令ろうちゅうれいは、宮中の警護を司り、閻咸陽令かんようれいには、自由に動かすことのできる衛兵がおる」

 舅は幸いにもと言ったが、本当にそうであったろうか。義叔父が郎中令であることも閻楽が咸陽令であることも、備えてあったような気がしてならない。皇帝を弑する必要が生じたときのために予め仕組んであったのではないか。

 肌をさすりたい衝動に駆られた。閻楽は、しかしそれをぐっと堪えた。

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