蒙恬もうてんが死んで十日ほどが過ぎ、ようやく玉座の座り心地にも慣れてきた。胡亥こがいは今、宮中奥で侍女に体を拭わせている。そうした行動を取れるようになったのも心にゆとりができたからである。拭わせるといっても半裸の胡亥はじっとしてやしない。女の衿元からすっと手を差し入れて乳房の感触を楽しみ、時折乳首をそっと摘んだりする。公子であったときからこうした嗜みが胡亥にはあった。淫蕩であった祖母の血を偽りなくひいていると胡亥は思う。皇帝となってみれば、その血は誇らしくあった。

 侍女の宮廷暮らしにまだ不慣れな様子が胡亥は気に入った。蔓のように身をよじって吐息をもらし、たまに針でつつかれたかのごとく反応する、その仕草がまたあどけなくて好い。白い、侍女の肌が熟した桃の色に染まっていくにつれて、胡亥は昂りを抑えられなくなった。矢も盾もたまらず胡亥は勢い侍女を押し倒したが、それ以上には及べなかった。部屋の隅から注がれる視線が妙に気になったからである。

 胡亥は侍女を抱き起こして、はだけた衣服を正してやった。無遠慮に注がれる視線から侍女の素肌を隠した後で、胡亥はその視線の主、趙高ちょうこうを見た。

 趙高は何も言わない。父が造らせた、父とともに埋葬される予定である万体の陶俑と同じような目をしていた。胡亥と侍女のほうに顔を向けてはいたが、双眸には何も映っておらぬかのような表情をしている。胡亥は趙高が何か言い出すのを待ったが、ついに気まずさに堪えられなくなって問いかけることにした。

「郎中令、役目にはもう慣れたか?」

 胡亥は先日、趙高を車府令から郎中令に昇格させてやった。重臣を前にして国是を示したあのとき、すらりと口をついたその文言が自身の教育係であった趙高の口癖であったことに気づき、師の恩を意識した。胡亥の脳漿に浸された法の知識はすべて趙高に与えられたものである。その対価に官位をというわけではないが、少なくとも胡亥はその恩に報いたつもりであった。

「まだまだ勝手がわかりませぬ。故に多大なるご迷惑やご不便を主上におかけしておるのではないかと、この趙高、常に身の縮こまる思いでおりまする」

 郎中令の主な任務は皇帝の警護である。しかし趙高が部屋の隅に控えているのは任務のためではない。厳密にいえば郎中令の役目は警護の差配である。非力な宦官の趙高が部屋に詰めることで務めを果たしている気になっているのであれば、胡亥は趙高を罰しなければならないが、現実にはぬかりなく後宮の警護も差配している。もっとも真面目な趙高のことであるから、闖入者があれば自身が最後の盾となって胡亥を護るという気概を秘めているやもしれぬが、趙高が侍しているのは宦官だからである。つまり胡亥の世話をするためにいる。

「そなたはよくやってくれている。そう畏まらずともよいぞ」

 胡亥がかけた労いの言葉に、趙高は殊勝にも一歩下がって最敬礼をとり、深々と頭を垂れた。

「楽にしろと言っておる」

 と、胡亥は笑ったが、この趙高の生真面目さに少し息の詰まる思いをしていた。

 皇帝になってからというもの、独りでいることがなくなった。独りでいられなくなったのである。奥に引き下がっても必ず宦官が付いてまわる。厠へ行くときもすぐ後を追ってくる。寝所にあって女人と営んでいるときも、天蓋から垂れた薄布の向こうには宦官が控えているのである。

 掌中には意のままになる天下があるというのに、その天下の中心で皇帝はかくも不自由な日々を送っている。それが胡亥には不思議でならず、また不満に感じていることであった。

「しかし宮中にあって朕の命を狙う不届き者があろうか。存外に退屈な役目であろうな」

 胡亥は皇帝である自分の身を殺めんとする者の存在など信じていない。玉座の上で、あの、ひりひりと焼け付くような畏敬の念を一身に浴び、痺れるくらいのこそばゆさを味わえば、胡亥でなくともそう思うに違いない。

「主の身を衛ることに退屈を覚える臣がございましょうか」

「そうは言うても、朕は刺客を見たことがない。その気配を感じたこともない。居りもせぬものにそなたは気を張り詰めすぎておる。少しは肩の力を抜くがよかろう」

 早い話、胡亥は趙高を部屋から追い出したいのである。衝動は今も燻っている。

 が、それを悟ったからなのか、あるいはそうでないからなのか、趙高はのんびりとした口調で、「主上は、龍をご覧になられたことはござりまするか?」などと言う。

 唐突な問い掛けである。胡亥にはその意図が掴めなかった。おおかた説教でもしたいのであろうとうるさく思いながらも、それを隠して、「あれは架空の生き物であろう」と返した。素直に答えたのは、趙高をさっさと満足させて去らせたいがためである。

「然り。では虎はいかがにござりまする?」

「父上に献上されたことがあったな」

「ござりました。あのとき主上もご覧になっておられましたか」

 あの虎はどうなったか。兵が包囲する中で檻車から放たれ、確か十数人を殺めた。胡亥は虎の無駄のない身ごなしに見惚れながらも強靭な爪牙に恐怖した。跳びかかり跳びすさりする虎は、実体よりもはるかに巨大な獣として胡亥の目に映った。が、その虎も最後は無数の矛を突き立てられ毬栗のような姿で果てた。父の座興に散ったのであった。

「そなたは朕に、あの虎のようにはなるなと言いたいのであろう?」

「滅相もござりませぬ。私が致しておるのは、主上の身に迫る危機についての話でござりますゆえ」

「よくわからぬが、危機とは何か?」

 が、趙高は答えようとしなかった。ちらりと侍女を一瞥して、俯いている。つまり人払いを求めているのであろう。

 胡亥は侍女を見やった。侍女はそわそわしく、どうしたらよいのかわからぬといった様子であった。それがまた胡亥の心をくすぐって、胡亥は無性に侍女を抱きしめたいという衝動にかられた。が、完璧なる皇帝とはと自問し、名残惜しさに煩悶としながらも、胡亥は侍女を下がらせた。

「これでよかろう?」

 その口調がどこか得意気に響いてしまったことを恥じ、胡亥は慌てて、「それで危機というのは?」と趙高に先を促した。

「主上は龍をご覧になられたことはござりませぬが、虎はござりまする。されば土龍(※モグラではなくミミズの意)は如何?」

 まだたとえばなしの途中であったかと胡亥は多少うんざりしたが、侍女を下がらせた今、趙高を慌てて追い払う必要はもうなかった。自身の危機の話と言われれば、しっかり耳を傾けねばならぬとの思いで胡亥はいたのであるが、つい「ない」とぞんざいな返しになった。

 が、趙高は気にした風ではなく、眉根ひとつ動かさなかった。思えば、この趙高という宦官は、およそ宦官らしくない。いや甲高い声音や丸い体型は宦官そのものであるが、何かが他の宦官とは違っている。どこか異様なのである。

「土龍とは土中に棲まう小さき蛇のごとき生物にござりまする」と何やら趙高が語っていたが、胡亥の意識はもう別のところに行っていた。胡亥は脚を組み、頬杖をついて、趙高を観ている。

「龍とは申しましても、しかと存在する生物でござりまして、田畑を掘り返さば、すぐに土龍の数匹は見つかりましょう」

 胡亥は趙高の宦官らしからぬ面に気付き、思わず「そうか!」と声をあげた。

 趙高は胡亥が論点を掴んだものと誤解し、静々とした口調で「おわかりになられましたか」と言った。

 まずこの口調なのである。かつて胡亥のよく知る宦官は教育係の趙高だけであった。それが為、ずっと気付かずにいたのであるが、皇帝となり多くの宦官と接するようになって、宦官というものはどうやら普通は感情の起伏に富んだ輩のようであると知った。趙高以外の宦官ならば、胡亥が理解したことを身振り手振り交えて、おそらく大袈裟なまでの響きで感激を示したであろう。

 その後、「あ、いや、わからぬ」と胡亥が言えば、他の宦官なら大方、落胆の表情を隠せまい。しかし趙高はそれを微塵も滲ませやしない。巧く隠しおおせているというよりは、感情そのものに乏しいのではないかと思う。

 父の墓に副葬する予定の、数多なる陶俑を初めて目にしたとき、胡亥はそれらがどこか趙高に似ているように感じた。その理由がわかった。

「して、その土龍が如何した? 実物を見たことはなくとも、土龍が何たるかは朕とて知っておる」

「刺客は龍とは違いまする」

「そうであろう。龍とは気高き生き物であるからな」

「御意。また虎とも違いまする。刺客は凶暴なる爪牙を衆目に晒したりはいたさぬもの。彼奴らは土龍なのでござりまする。居らぬから見えぬのではござりませぬ。土龍のように潜み蠢き、おいそれとは姿を見せぬものにござりまする」

「では刺客はおると申すか? 誰じゃ? 誰が朕の命を狙うておる」

「……それは」

 と言い淀む趙高に胡亥は苛立った。この段になって誰かは言えぬでは話にならぬ。それも胡亥から侍女を引き離しておいてのことである。

「そなたは刺客を隠し立てするのだな?」

「とんでもござりませぬ。私は主上に忠誠を誓うておりまする」

「では言え」

「お赦しくださいませ。私には申し上げられぬ御名なのでござりまする。お察し下さいますよう」

 趙高が口にするのを憚る名と云えば――。

「皇族か!?」

 趙高は肯定も否定もしなかった。のんびりとした口調で、自身の昔話でもするかのように彼方を見つめている。

「歴史を紐解けば、古来より新王即位の後、ほどなくして近しい血族が次々と誅されてきたようにござりまするが、私はずっとかの者たちは咎なく刑戮されたものとばかり思うておりました。云わば新王の過剰な猜疑心の犠牲者であると。されど有り難きことに主上のお傍に置いていただき、また郎中令なるお役目を頂戴いたしたことで、私の考えは誤りであったのではないかと思い至ったのでござりまする。恐れながら、尊き血筋にはもしかいたしますれば、頂上を極めんとする性が組み込まれているのやもしれませぬ。あるいはかような性を備えておるがゆえ、尊き血筋はさらに尊さを増すのやもしれませぬが」

 胡亥には思い当たることがある。未遂に終わった兄扶蘇の謀叛もその性のせいであったのではなかろうか。人望厚く、聡かった兄が何故、父に背こうとした理由は他に見当たらぬ。また父がまだ秦王であった頃、父の弟、胡亥の叔父にあたる成蟜せいきょうが謀叛を企てたと聞く。胡亥が生まれる前のことである。それもまた血筋の哀しさなのであろうか。

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