もしも自分ではなく別の兄弟が皇帝の座に着いていたとしたら、胡亥こがいもまた頂点を目指すべく行動を起こしただろうか。そう考えかけ、胡亥は首を左右に振って、その思案を頭から追い出した。二世皇帝は現に胡亥なのである。もしもの話が何の意味を持とうか。仮に自分も叛逆したであろうという結論に至ったとしても、それは胡亥の兄弟が皆そうであるという確証には成り得ない。

「不届き者はたとい朕の一族であろうとも遠慮はいらぬ。確かなるときは誅し、不確かなるときは捕らえ問い質せ。それから先刻の朕の非礼を詫びよう。朕が今日もあるのはそなたが役目に忠実であるからであろう」

 胡亥の言葉に趙高ちょうこうはまた深々と頭を下げている。趙高の生真面目さを疎ましく思いながらも、この慇懃さを胡亥は好んだ。思えば趙高を傍に置くのも、趙高が胡亥の教育係であったからというより、皇帝であることを常々感じさせてくれるからではなかろうか。趙高は胡亥の師であるにも関わらず、胡亥への敬服ぶりは他の臣下以上である。そうでありながら、ときには胡亥に説教をする。それが胡亥には不思議に心地良かった。よくわからぬが、理想の皇帝像に迫っている気がするのである。

「勿体なきお言葉、趙高は果報者にござりまする。なれど、主上に今ひとつ申し上げたき儀が――」

 胡亥の背筋がちりりと痺れた。この感覚が堪らない。

「許す。申してみよ」

「皇帝とは地上に遣わされた天の子にござりまする。御身は地に置きながらも、叡智は天に繋がっておりまする。天の子とは謂わば、天と地の両界に属する霊峰の頂きがごとき存在。霊峰の頂きは霧にけぶっておりまする。たとい晴天であってもその神秘の形状を顕わにするは稀有なこと。先帝は王より皇帝におなりあそばされたお方ゆえ、皇帝がいかに偉大で気高い存在であるのか、敢えてそばだつ頂きを晒すことによって示しておいででした。熱心に巡幸なさっておりましたのも、それがためにござりまする。しかし本来、皇帝とは天上人にござりまする。先帝の巡幸によって、皇帝が偉大であることはすでに充分、下々に伝わっておりまする。瑕疵なき完璧な皇帝たらんと願われるのであれば、主上は霊峰の頂のようにお過ごしなさりませ」

 完璧な皇帝という言葉が一際大きく、胡亥の耳に響いた。

「皇帝とはそういうものか?」

「主上、私は決して警護の手を抜きたいがために申しておるのではござりませぬ」

 胡亥は「はは」と笑って、趙高に左手を少し掲げて見せ、疑っていないことを示した。

「皇帝とは霊峰の頂か。なるほど、そうであるな」

 胡亥が呟くと、趙高は「左様にござりまする」と頷いた。


 それから幾日かして、胡亥は趙高に皇族処刑の許可を求められた。咎は謀叛を企てたことであった。親戚にあたるその男の処刑を、胡亥はすんなりと許した。次に趙高が捕らえてきたのは数多くいる兄のうちのひとりであったが、このときも胡亥は躊躇なく処刑を許した。罪はやはり謀叛を企んだことであった。間に数人の高官の処刑を挟みながらも、胡亥の兄たちは次々とこの世を去っていった。二十数人いた兄が十数人になり、十人となった。不思議と胡亥の目から悲憤の涙は流れなかった。姉までもが自分に叛こうとしていたと知っても、むしろそれを褒めてやりたいとさえ思った。尊き血の性と信じたからである。それゆえ、兄がこうのみになっても晴れやかな心持ちであった。

 しかしその兄が今更、父に殉ずると言い出したときは、腹立たしいやら哀しいやら、少し複雑な気分になった。本心を申せば、最後の一人まで叛いて欲しかったのである。胡亥が皇帝になったとき、叛くことが兄たちには課せられたのであるとさえ胡亥は思っていた。兄たちは胡亥の血の気高さを証明するために生を受け、そしてそのために生を終えるのであると信じていた。

 兄高が殉死を遂げる前夜、胡亥は高に面会した。高は遺される家族を胡亥に頼み、胡亥は「父上のことをお頼み申す」と言って涙を零した。が、胡亥のその涙は今生の別れを惜しんだものではなく、極みに昇りつめんとする皇族としての矜持がない兄を憐れんだものであった。それ故、兄高の遺体が驪山りざんの麓に埋葬されたとの報告を受けても、胡亥は涙ひとつ浮かべなかった。何の感慨も覚えなかったのである。

 胡亥は高との想い出を回顧しようともせず、兄とともに殉葬された、父の妾たちのことを考えていた。正確には、父の子を産まなかった妾を殺すべきであると言ったときの趙高のことを考えていた。

「不吉でござりまする故」というのがその理由であったが、胡亥には何が不吉であるのかわからなかった。子をなした妾を殺せというのであらば理解できる。兄姉に咎があったとはいえ、胡亥は彼らを死に追いやったのである。胡亥を逆恨みする妾がいてもおかしくはない。そのため兄姉の母親と母の血縁も法に則り、誅殺してきたのである。しかし子を設けることのできなかった妾を殺す理由は胡亥には見つけられなかった。

「温情にござりまする。かの御方々に役目を果たす機会をお与えくださいませ」

 戸惑う胡亥に、趙高はそう言葉を重ねた。

 趙高は珍しく顔に感情を表していた。胡亥はその表情に嫌悪の感情を読み取ったが、それが何に対する嫌悪であったのかはわからなかった。過去に妾の誰かに虐げられた記憶があるのであろうかと思った。

「慣例に従いますれば、子のない妾は宮中には住まわさぬものにござりまする。とは申しますれども宮殿の造りを知る者を外に移せば、主上の身の危険にも繋がりかねませぬ。故、かの御方々を先帝のお傍に向かわせることは、主上のためでもあり、かの御方々のためでもあるのでござりまする」

 そして胡亥は、叛乱を未然に防いだ趙高が言うのであればと、奨めに従って、子のない父の妾たちに殉死を命じたのである。

 常に無表情である趙高が、何故あのとき、あのように感情を滲ませていたのか、今もわからぬままである。そのときのことを胡亥は一度、趙高に問うたことがあるが、趙高は「主上の御身をお衛りいたすことと先帝の冥福を願うことに必死であったがためにござりましょう」と答えただけであった。

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