三章 趙成

格子越しの対話

 趙成ちょうせいが、李斯りしに会うのは三日ぶりのことであった。

 そのわずか三日の間に、李斯は随分とやつれた。

 確かに李斯は元より痩身な男ではあった。そのひょろりとした体躯が神経質そうな知性を醸し出していたように思う。が、今の李斯の姿にはその鋭さがない。蝋灯りが、李斯のこけた頬にくっきりと色濃い影を落としている。

 獄中では、米の研ぎ汁のような粥しか与えられぬのだから、痩せぬ者などいやしない。しかし李斯ならば、過去の功績を鑑み、食事くらいは人並みのものを与えられる例外になっても良いのではないか、と趙成は思うのである。が、法がそれを許さない。

 李斯は今、罪人である。

 先日、左丞相さじょうしょうの任を解かれ、投獄された。皇帝の施政を批判したためである。李斯は、右丞相うじょうしょう霍去疾かくきょしつ、将軍馮劫ふうこうと伴に、臣民、罪人を駆り立てて大規模に行っている、阿房あぼうの宮殿の造営を咎めた。その結果、三人は位を剥奪され、罪人に堕とされたのである。霍去疾と馮劫は屈辱からか、あるいは罪の意識からか、その日のうちに自害した。

 が、李斯はまだ生きている。趙成は獄中の李斯に、毒酒と小剣ではどちらが良いか、と訊いたことがある。李斯に自害する気があるのなら都合してやろう、と思ってのことである。それに対し、李斯は「そなたに罪を犯させるわけにはいかん」と趙成をたしなめた。確かに囚人への差し入れは、食事に限らず、何もかも禁じられている。ましてや毒や刃物などというところではあるが、断続的に食事を運んでやることは難しくとも、自決を遂げるための何かを届けてやることは容易い。趙成にはそのくらいの罪を揉み消せるだけの力がある。李斯とてそのことは理解しているはずだが、それでも罪という言葉を口にして拒むのは、法家としての信念からなのかもしれない。

 詰問に加え、昨日から拷問も始まったと聞いている。牢獄に月光は射し込まず、蝋の灯りは頼りない。闇が李斯の生傷を隠している。また李斯も拷問などなかったかのような居住まいである。歳は耳順を過ぎているであろうに、正座をする李斯の背筋はしゃんとしている。李斯の素性は趙成とさほど変わらぬ。見目とて麗しい男ではない。が、この男には気品が漂っている。

 生来のものであるのか、丞相の位に昇りつめるにつれ、身に備わっていったものであるのか、趙成には判断が付かない。ただその品がより一層、李斯を痛々しく見せるのである。

 そして趙成は思った。李斯を自害させてやらねばならぬ、刑死させてはならぬと。

 しかし何故、李斯は自害しないのか、趙成には合点がいかない。かつての己の寄与を頼みに減刑を願っているとも思えない。それが無駄であることを李斯は理解しているはずである。二世皇帝の代になって、法の行使はより厳格になった。いや苛烈になったと言っていい。投獄され詮議にかけられた者の無実が証明された例はなく、却って余罪が増えていくのが常である。そしてそのうち罪は親や兄弟、子らにまで及ぶ。霍去疾と馮劫が早々と自決したのには、おそらくこうした事情が絡んでいる。要するに、己の誇りと親族を守るには、早期の自死が求められるということである。

 事実、李斯には新たな嫌疑がかかっている。東で起きた叛乱についてである。亡国の名将項燕こうえん、その子である項梁こうりょうが兵を起こした。李斯の長男李由りゆうは、項梁に内通していたのではないかとされている。当然、背後には李斯がいるのであろうと疑われた。もっとも李由は項梁の軍と矛を交えて戦死を遂げたのだが、誰もそのことは持ち出さない。李斯の弁護をすれば、自身に火の粉が及ぶことを知っているからである。

 李斯にいかなる思惑があるのか、趙成にはわからない。意地か自負か、あるいは他の何かかが、自死を拒むのであろうか。いずれにせよ、熾烈になっていく拷問の最中、それを保つのは難しかろう。そのことを暗示するかのように、李斯は今、船を漕いでいる。正座をしたまま、ゆらりゆらりと上半身と頭部を揺らしている。

 李斯が睡魔に抗えぬのも無理のないことである。夜になれば、趙成らが面会と称して、獄中の李斯のもとへとやってくる。李斯には眠る間など、さほどもない。そのような中で李斯は横にもならずにずっと正座をしたままである。

 趙成は、李斯を起こさぬようにと注意していたが、李斯は、はたと目を覚ました。そして牢獄に似つかわしくない長閑な抑揚で「おや」と言った。かと思えば、すかさず背筋を伸ばし、「趙成殿がお出でであったか。これは失礼いたした」と頭を垂れた。

「ほとんど寝ておらぬのでしょう? 私に構わず、いましばらくお眠りくだされ。私はお暇いたしまする」

 そう言って、趙成は両腕を大きく振って恐縮したのであるが、李斯は静かに首を横に振った。

「貴殿との会話が、今の儂にとっての唯一の愉悦。儂の愉しみを奪わんでくれ」

「されど、私めは趙高ちょうこうの弟にござりまするよ?」

「然様。そなたは趙高殿ではない」

 そう言って、李斯は静かに笑った。

 李斯の寝る間を削るように人を遣わしているのは、兄の趙高である。面会にやってくる人間の大半は兄の食客であるから、李斯ももう誰の差金であるか、気づいているに違いない。名目上は面会であるが、その通りにしているのは趙成くらいのものである。兄の食客たちは、兄の言いつけを忠実に守って、精々と李斯の睡眠を妨げている。中には眠らせぬだけでなく、李斯を露骨に嘲罵する者までいるらしい。

 李斯からすれば、名も覚えておらぬ者からの面罵であろう。かつて丞相の位にあった男が、いわば小者から口汚く罵られるというのは、いかほどの屈辱であろうか。

 獄吏というのは、罪人がいたぶられるのには慣れているものであるが、その獄吏でさえもが、李斯をいたわしく思ったようで、その有り様を趙成に告げた。しかし獄吏は極めて無表情で淡々としていた。李斯が哀れだと言うことはなく、李斯が兄の食客から受けている仕打ちをただ報告しただけである。扱いへの意見などは口にしない。

 結局のところ、獄吏も承知しているのである。李斯は兄との権力闘争に敗れた。その李斯を庇おうものなら、獄吏は身を滅ぼすことになる。たとい李斯の処遇改善を願っていようと、獄吏は報告という形に変えて、伝えるしか術がないのである。

 しかしそれを聞いたところで、趙成にもまた術がない。趙成が何か言っても兄の食客らは兄の言葉に従うであろうし、兄に言っても一笑に付すだけであろう。ただひとつ、趙成に出来ることがあるとすれば、それは李斯に死を勧めることである。

「未だ決心は付きませぬか?」

 と趙成は聞いたが、李斯は「いったい何の決心でござろう?」と首を傾げた。

 否という単語を用いずに否との意思を伝う、李斯らしい返事である。言葉の意味を理解したことを示すために、趙成がくつくつと笑うと、李斯も同じように笑った。

「されど、何故にござりまする?」

 もはや李斯は死を免れないと趙成は思う。

「儂はのう、報いねばならぬのだ。滅ぼさねばならぬ罪がある」

「それは李家を道連れにしてまで滅ぼさねばならぬほどの罪なのでござりましょうか?」

 李斯は躊躇うことなく頷いた。

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