二章 胡亥

完全無欠なる皇帝像

「謀叛人めはようやく自害したか」

 胡亥こがいは丞相李斯りしの報告に手を叩いて喜んだ。

 謀叛人とは蒙恬もうてんのことである。父、始皇帝は死の間際に二つの詔勅を発した、と胡亥は趙高ちょうこうに聞かされた。一つは胡亥を後継指名したものであり、もう一つは兄扶蘇ふそと蒙恬に自害を命じたものであったという。

 その罪状を胡亥はよく知らぬ。父の亡骸を携えて首都咸陽かんように戻ったところ、兄が自害したとの報せを受けたのである。父が二人に死を命じたと知ったのはそのときであった。謀叛を企てた罪というふうなことを聞いたが、あの兄と三代に渡って秦に仕官していた蒙家の当主がそのようなことをするだろうか、胡亥には信じられなかった。

 兄扶蘇の死に胡亥は衝撃を覚えた。異母兄の死を悼んだのではない。兄の死の告げるところに息を呑んだのである。すなわち、二人の謀議は事実であったか、と。

 兄は神妙に父の温情溢れた命令に従って、短刀を首に突き立てて果てたそうであるが、蒙恬は事もあろうか偽書の疑いがあると嘯き、命令を保留したのであった。胡亥にすれば、蒙恬の姑息な延命は、命じた父とその命に潔く従った兄を辱める行為に等しかった。

 憤怒が胡亥に「陽周ようしゅうに向かう」と言わせた。陽周の獄に蒙恬は繋がれていた。直々に蒙恬の首を刎ねる意気であったが、まずは父の葬儀を執り行わねばならぬと現実に立ち返って、やむなく陽周行きは延期した。父の葬儀と自身の即位の礼を済ませ、時機到来と声高に「陽周へ行く!」とまた宣言したが、今度は李斯が顔色を変えてそれを阻んだ。

「先帝も過去の蒙恬の功績をお認めになっておられたからこそ、蒙恬に自死を賜られたのではありますまいか。今一度、蒙恬に温情を」

 胡亥はぐっと堪え、李斯の進言を採って、改めて蒙恬に死を命ずることにした。これが胡亥の発した最初の勅命となった。

 詔書には一族の罪は問わぬと記した。蒙恬が死ぬことで蒙恬の親族に罪が及ばぬように取り計らった。父は蒙恬以外の蒙家の人間の罪は問わなかった。胡亥はその遺志に従ったのであった。しかし胡亥は父のような寛大な処分を下してはいない。胡亥の記した「一族の罪は問わぬ」との一文には、裏を返せば、蒙恬が自害せぬときには親族を殺すぞという脅迫が含まれているのである。

 はたして蒙恬が自死を遂げた。毒酒を仰いだそうであるが、胡亥にとって方法などどうでもよかった。ただ謀叛人が死んだ、その事実だけで十分であった。亡き父の下していた未遂の命令を後継者である自分が責任をもって果たさせた。その達成感に胡亥は満足を覚えていたのである。

 心地よい感覚に酔いしれながら、胡亥は玉座から立ち上がった。するとすぐさま李斯をはじめとする重臣の面々が諸手を組み掲げ、頭を垂れる。それを見渡すのがまた快感であった。身震いしながら、胡亥は中華の主となったのだと実感した。

 そのまま「朕は」と胡亥は切り出した。胡亥はこの「朕」という一人称をたまらなく好んでいた。天下で唯一、皇帝のみに使用が許された一人称を口にするとき、掌中にあらざるものはないと感ぜられた。

「朕は先帝の遺志を継ぐ者なり」

 基本的な施政方針は胡亥の代になっても変わらないとの宣言である。すなわち胡亥の示した国是と言える。父が罪人を厳しく処したように、胡亥も厳罰をもって望む心づもりであった。

 現在の秦があるのは法制のおかげである。胡亥から数えて七代前の先祖孝公こうこう商鞅しょうおうを用いた。その商鞅が法家思想を持ち込み、秦に厳格な法律を定めた。法は秦の国力増強に寄与し、西方の小国に甘んじていた秦は六国りっこくに肩を並べるまでになり、父の代にはそれらを併呑するに至った。

「法は国の宝であり、繁栄の源である。何人もこれを軽んじることは罷りならん。法に背きし罪人はその罪を刑罰によって贖わねばならぬ。大罪を犯せし者は無論のこと、微罪の者とて見逃すな。驪山りざんをはじめ、北方、阿房あぼうと労役の地には事欠かぬ」

 それら三つの地には父が存命中に築き上げることのできなかったものがある。

 驪山には未完の陵墓がうずくまっている。父は、方士に研究させるほどに熱心に不老不死を求めながら、反面、過去に類を見ない規模の陵墓を築かせていた。そうした行為に胡亥は撞着を覚えなくもなかったが、父なき今、その竣工を急がせることに疑義を挟む余地はない。むしろ父の陵墓を作り上げることは、後継者たる胡亥の当然の役目であると感じていた。

 阿房の地にもまた、胡亥の責務がある。首都咸陽とは黄河の支流渭水いすいを挟み、隣地にあたる阿房、そこに父は宮殿を造営していた。咸陽宮とは比にならぬほどの巨大な規模の宮殿である。それゆえにまだ半分ほどしか出来上がってはいなかった。

 阿房の大宮殿のなかには、父の描いた皇帝のあるべき姿がある、と胡亥は思っている。大宮殿に鎮座し、天下を睥睨して泰平をもたらすことが始皇帝であった父の理想とした皇帝の姿なのではなかろうか。その姿を体現することこそが父から託されたものである、と胡亥は信じていた。

 であるから都合四つ、胡亥には完成させねばならぬものがある。驪山の陵墓、阿房の大宮殿に北方の長城は言うまでもない。そこに完全無欠なる皇帝像が加わった四つである。

「よいか、手心を加えることは許さん。法は厳正に行使されてこそ、その効力を持つのである」

 知らず知らずのうちに胡亥は握りこぶしを固め、振りかざしていた。熱く力説していた自身を顧みて、胡亥はふっと笑った。そしてもう一度ふっと笑った。今しがたの口上が、過去に趙高が口にした言辞、ほとんどそのままであったからである。法の厳正なる行使の大切さを胡亥は教育係であった趙高から学んだ。口癖のように「法は厳正に行使されてこそ、その効力を持つのでござりまする」と言っていた趙高を思い出して、胡亥は堪えきれなくなって吹き出した。

 何事かと恐る恐る顔をあげた李斯と目が合ったが、胡亥は構わず笑い続けた。

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