三
「
「ほう。して、儂はどちらの剣か?」
「お戯れを」
と趙高は少し口元を緩めた。
媚びるようなその微笑は、李斯の嫌悪感を誘った。それを察してか、趙高はすぐに真顔に戻って、また口を開いた。
「しかし私が思いまするに、治乱を司るは剣にあらず。振るう者の性分にあると存じまする。君子が治世の剣を振りかざさば、国はよく治まりまするが、乱世の剣を振るったところで乱れはいたしませぬ。されど小人が治世の剣を振り回しても国は波立ちまする。乱世の剣に至っては言わずもがなのこと」
「扶蘇様もまた主上の血を引く貴人であるぞ」
「しかり。扶蘇様が小人であるとは申しませぬ。されど、かの公子は法治よりも徳治に傾いておりまする。それがため、世を乱すと申しておるのでござりまする」
「……徳治か」
支配者が率先して善を行い、民衆に善を励行し、善へと導いて、国を治めるという理念である。
李斯はふむと唸った。扶蘇にはその気があるかもしれぬと思ったからである。処罰されることを恐れずに始皇帝を諌めた際、扶蘇の双眸に宿っていたものは何であったか。記憶を呼び覚まそうとするが、うまく思い出せない。それが温情であったような気もすれば、信念であったかのようにも思えてくる。
人は生来悪であると説いた
「李斯様は法治を体現なさらねばならぬお方でございます。いずれの公子をお選びになられようとも、どうかこの趙高の記したる書簡をお使いくださりませ」
「それはつまり……」
二世皇帝を
「私も法治を理念といたす者でござりまするゆえ」
趙高の声は相変わらずの甲高さであったが、李斯の耳にはすんなりと入ってきた。
理想の国を築くためのその礎となっても厭わないと趙高は言っているのである。李斯はにわかに感動さえを覚え、宦官といえども男子であるなと思ったくらいであった。
「どなた様になさりまするのか?」
三度、趙高が問うた。
蝉が鳴いている。蝉の声しか聞こえない。李斯は始皇帝に目をやった。遺体はもう威圧感を留めてはいない。抜け殻であった。
搾り出すような声で、李斯は言った。
「……胡亥様を二世皇帝に」
「ご英断にござりまする」
李斯に向かって、恭しく趙高は頭を下げている。
始皇帝の遺言に背くのに気が咎めぬわけではない。偽の遺詔を胡亥に渡すことに不安を感じぬわけでもない。が、李斯は理念のため、国のため、万民のために違えるのである。今さら何を躊躇うことがあろうか、自らの信念のために兄弟子であった
李斯が趙高から偽の、否、李斯の信ずる真の遺詔を受け取ると、趙高もまた「それは真物にござります。ご安心召されませ」と言って頷いた。
翌日、小休止の最中に李斯はまた始皇帝に呼ばれた。もっとも始皇帝は布に包まれ、寝台の上で永眠しているのであるから、実際に呼んでいるのは趙高である。
李斯が車内に入ると、趙高は早速に一巻の木簡を李斯に差し出した。
「これを
すでに胡亥の即位に向かって動いているのである。昨晩のうちに、始皇帝の死を胡亥には告げている。そのときに趙高は胡亥へ、始皇帝が遺詔を作成するときに立ち会った者として、胡亥が嗣子であると伝えていた。上郡へ何を今更と李斯は不審に思った。
怪訝に思いながら紐解いてみれば、それは扶蘇と蒙恬に死を賜るという璽書であった。扶蘇には、厳しく君主を諌めた不忠と今も父に詫びようとしない不孝を問い、蒙恬には、長城は未だ完成を見ず、匈奴が今も存えているのは怠慢であると責め、温情をもって二人には自害を許すという内容である。
扶蘇を喪主にしようとしていた始皇帝が、その扶蘇に自害せよという璽書を作ったとは考えにくい。無論、趙高の記したものであろう。
李斯は気色ばんだ。
「ふざけたことを申すな。このようなものを送れるか」
そうであろう。内容が内容である。偽書ではないかと二人が疑うのは容易に予想できる。始皇帝の筆によらぬことが発覚するのは時間の問題である。結果、趙高が炙り出され、遺詔にある字も趙高の刻んだものであることがあらわになって、李斯も趙高も殺されるであろう。
李斯にとっても、扶蘇と蒙恬は確かに邪魔である。が、二人を排除するのは、あまりにも危険を伴っている。この期に及んでいるのである。李斯は死を恐れてはいない。が、死を恐れぬことと、死を誘うことは別である。
「何故にござりまするか? 致さねば、国を分かつことになるやもしれませぬ。間伐のようなものにござりまする。大秦帝国の繁栄には欠かせぬことかと」
「おぬしの言葉にも一理はある。だが国が割れるか否かは可能性の話であって必定ではない。間伐は適当なたとえではあるまい。それ以前に何より危険過ぎるのだ」
「李斯様」趙高のじっとりとした視線が李斯に絡みつく。「もしや勘違いをなさっておられませぬか?」
「勘違い? 何をだ?」
「私の記す文字は主上の御文字なのでござりまするよ。二年程前より私が代筆を務めさせていただいておりまするゆえ」
「つまり……」
「さよう。本来の御遺詔も、二年前からこちらの御璽書もすべて私の筆によるものにござりまする」
李斯は昨日見た遺詔の文字を思い出した。確かに今手にしている木簡に記された文字と同じであったように思う。
「そのことを知っておる者は?」
趙高は首を傾げて、「今となっては私ひとりにござりまする」と答えた。
始皇帝と趙高のみが知っていたということである。それを今になって告げるのかと愚弄された気分であったが、李斯は自尊心など二の次であると堪えて、言った。
「お二人には引き続き、亡き主上に仕えていただこう」
国のためである。
李斯らは一路に急がず、経路を守って首都咸陽へ戻ることにした。始皇帝の死を内外に悟られぬようにである。しかし暑気の激しい季節、
荷車一杯の魚を調達するように命じるとき、李斯は「まじないのためである」と用途をわざわざ兵に告げた。当然、嘘の用途であるが、兵に怪訝な顔をされたためについ言ってしまったのである。いかなる意図があろうと、本来ならばそれを兵に伝える必要はない。兵も訊いたりはせずにただ命令を遂行するのである。
いかに正義は我にありと信じていても、某かの罪悪感は拭えぬか、と馬上にあって李斯は天を仰いだ。後方には始皇帝の馬車があり、車輌に連結された荷車が始皇帝の遺体の腐敗臭を誤魔化していることであろう。
その腐敗しはじめた遺体の傍に趙高は侍っている。始皇帝はいまだ生きていることになっているためである。役目とはいえ、たいしたものであると李斯は感服した。今回の巡幸で、李斯は趙高への認識を改めている。知識も知恵も志も申し分ない。宦官でなければ、一角の官位にあったかもしれぬ。勿体のないと李斯は趙高の能力に対して思ったが、嫌悪感は依然として腹の底に横たわったままであった。
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