李斯りしが指示を出すために車から降りようとすると、趙高ちょうこうがまた口を開いた。甲高い、例の声音である。

「お待ちあれ」

「何か?」

 李斯はもどかしさから感情を隠さず、ぞんざいに返した。

 帝国は現在、主不在の状態にあって、一刻を争うときなのである。その火急のときに、宮中奥に流れるゆったりとした時間の感覚でいられては困るのである。趙高は始皇帝の覚えめでたく、車府令という皇帝の馬車の管理営繕を担う官職に抜擢されていたが、さりとて宦官はあくまで宦官であるな、と李斯は呆れた。

「まこと扶蘇ふそ様でよろしゅうござりまするか?」

「主上のご遺言であろう。ならば、そのように滞りなく進めるが臣下の勤め。おぬしとてそれが判らぬわけではあるまい?」

「存じておりまする。おりまするが」

 と言って、趙高は言い淀む。

 宦官特有の回りくどさが李斯には一層腹立たしい。

「が、何だ?」

「恐れながら、私めは李斯様の才を惜しむのでございます」

 趙高の言はまるで要領を得ない。

「李斯様のご学友の韓非かんぴ様でございましたでしょうか。『飛龍は雲に乗り、騰蛇とうだは霧に遊ぶが、雲失せ霧晴れたなら、龍蛇はみみずありと同じである』という慎子の言葉に註釈をつけておられました」

 ――賢才や智恵を持つ者でも人を服従させるには足らず、権勢と地位こそが賢智の者でさえをも従える。

 兄弟子韓非は「難勢篇」にてこの理論を、矛と盾を売る商人のたとえ話などを交えながら補足していた。

 李斯にも少し見えてきた。同時に、趙高が始皇帝に寵された理由もわかったような気がした。始皇帝はおそらく、この趙高の勤勉さと学識を好んだのであろう。

「扶蘇様が今、最も頼みにしておられるのはどなたであるとお考えになられまする?」

「それは、蒙恬もうてん殿であろうな」

 匈奴きょうどに接した上郡じょうぐんにあって二年、扶蘇が些事にせよ大事にせよ、蒙恬を頼りにしているであろうことは容易に想像がつく。

「李斯様。いいえ、丞相じょうしょう閣下」

 恭しく趙高は、李斯を人臣極めたその官職名で呼んだ。わざとらしく「閣下」と添えてである。

 趙高の言わんとすることを、すでに李斯はあらかた把握している。

 二世皇帝に即位した扶蘇は、蒙恬に丞相位を授けるであろう。蒙恬はすでに扶蘇の信頼を勝ち取っている上、蒙氏は祖父の代よりの忠臣一族なのである。比べて李斯は、国出身の余所者に過ぎない。李斯がどれほど帝国に尽力し、皇帝に飼い犬の如き従順な忠誠を誓おうとも、三代からなる忠義には劣るのである。残念なことに周囲はそう評価する。そしてその評価は、李斯を罷免し、蒙恬を丞相に就任させるに足る理由となるのである。

「名剣は貴人の腰にあって輝きを増すのでござりまする。獣肉や蔬菜そさいに用いて、刃を曇らせてはなりませぬ」

 李斯は丞相職にあってこそ、というのが趙高の論旨であろう。

 軍を率いる資質は蒙恬に及ばぬものの、政における才覚は蒙恬をはるかに凌いでいる、との自負が李斯にはある。国は戦で切り取れても、治めるのは政によってである。趙高は正しい、と李斯は思う。丞相に相応しいのは蒙恬ではなく李斯なのである。

「しかし、どの剣を帯びるかは扶蘇様がお決めになられることである」

 扶蘇は蒙恬を選ぶであろう。万が一に蒙恬でなかったとしても、李斯は選ばれない。始皇帝が学者と方士を生き埋めにせよと命じたとき、その命令を滞りなく遂行したのは李斯なのである。

「ですから、どなた様になさるおつもりかとお聞きしておるのです。今、主上がお隠れあそばされたことを知るのは、我らのみでございます」

「申したであろう。跡継ぎをお決めになるのは主上である。そして主上は扶蘇様に継がせるとお決めになられたのだ」

 李斯は趙高の鼻先に遺詔である木簡を突きつけた。そうしたのは自らに芽生え始めた叛心を摘むためであった。

「庖丁に成り下がるおつもりであられるのは、それ、のせいにござりまするな?」

 と言って、趙高は遺詔を指差した。

「無礼であろう!」

 李斯は怒鳴りつけたが、趙高は身動ぎひとつしなかった。それどころか「無礼とは、どなた様に対してでございましょう?」などと不遜にも言う。

「それは……」

 と李斯は答えに窮したが、趙高は李斯を問いつめたりもせず、にやりと笑ったのみで、気に留めた風でもなかった。いつの間にやら始皇帝の硯を取り出しており、優雅な所作で磨墨していた。

「そのような物は捨ててしまえばよいのです」

 趙高はそう言って、真っ新な木簡を取り出した。

 趙高が何やら記すのを李斯は一文字一文字追った。追ううちに、李斯はまた額に大粒の汗をかき始めた。やがて身が震えだし、今は眩暈まで覚えている。

「おぬし、こ、殺されるぞ!」

 密談である。発した声は音となり、音は間もなく虚空の彼方へと消え失せる。密談であったはずなのである。ところが趙高は文字を残している。それも弁解の余地すらない文章を書いている。つまるところ、趙高は偽書を作成している。偽の遺詔をしたためているのである。

 涼やかに見えるのは顔立ちのせいであろうか、大それたことをなしている張本人の趙高には緊張の色がまるでない。

胡亥こがい様は弱冠なれど聡明なお方にござりまする。蛮刀よりも切れ味鋭い名剣を好まれることでございましょう」

 始皇帝には二十余の男子がいるが、胡亥とはその末子である。趙高が胡亥の人となりをよく知るのは、胡亥の教育係に任ぜられているからであろう。

 趙高の作成した偽の遺詔に、扶蘇の名はない。胡亥を喪主にとの旨で書き上げていた。

 胡亥というのは悪くない、と李斯は思う。遠ざけられた扶蘇と違い、胡亥は始皇帝が最も寵愛した公子である。それが証拠に、数ある公子のうちで胡亥のみがただひとり、今回の巡幸に随行することを許されている。

 しかし李斯ももう趙高が李斯の才幹を惜しんでいるのではないと見抜いている。扶蘇の世になることを嫌っているのでもない。胡亥が後継せねば困るのである。宮中奥の権力闘争は表の世界のそれよりも熾烈を極めているらしいとは、李斯も噂には聞いている。

 李斯を抱き込む理由もだいたい想像がつく。宮中の奥にある趙高には表の動向がよく見えぬ。それゆえ李斯を見張り台に立たせるつもりなのであろう。万が一にも胡亥の皇位継承を疑う動きが見られたら、つぶさにその芽を摘んでしまえという寸法である。そのためには相応の権力を握っている人物でなければならず、また利害の似通った人物でなくてもならない。趙高にとって、つまり李斯ほど打ってつけの人物はいないというわけである。

 食わせ者め、と李斯は思ったが、口には出さなかった。

「おぬしにかようなまで評価されていようとは、正直思わなんだ。されど、蒙恬殿もまた名剣であろう。否、儂は三代からなる忠節を持っておらぬ。あの御仁の輝きは、もはや宝剣に価しよう」

 化かし合いである。

 李斯は趙高の出方を窺った。趙高が李斯をなびかせるに足ることを言えぬ場合は、本来の遺詔通りに扶蘇を即位させるつもりでいる。図らずも李斯は、その気になりさえすれば、扶蘇政権の中枢に食い込めるだけの手柄を立てられる状況になったのである。

 趙高は失策を犯したことにまだ気づいていない。呑気にも始皇帝の懐をまさぐっていた。趙高は巾着を探り当てると中から玉璽を取り出し、粘土を練って、木簡に付着させた。そして勝手知ったるように躊躇うことなく偽の遺詔に封をしてしまった。趙高の作成した文書が、詔書として効力を持ったのである。

 が、筆蹟が違う。

 今、李斯が手にしている始皇帝の筆した真の遺詔と趙高の手にある叛意を示す偽の遺詔、この二つが李斯の謂わば奥の手である。

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