立ち上がらねばならぬのに、自身の体重を支えきれなかった。食事の量は、男であった頃よりも減ったのに、それとは対称的にぶくぶくと肥えていった肉体を、趙高ちょうこうはこのときほど恨めしく思ったことはなかった。

 背中の傷は、たいしたことないように思えた。身体は灼けるように熱かったが、堪えられぬほどの痛みではなくなった。肘を支えに腹ばいになっている身を起こそうとして、趙高は不意に咳き込んだ。咳には血が交じっていて、目の前の床に赤い斑点をいくつか作った。ひょっとすると致命傷なのやもしれぬ。そう思うと今度は寒気を感じて、身が震え始めた。

 子嬰しえいが趙高の傍までやってきて、何か言っていたが、内容は頭に入ってはこなかった。意識を聴覚に集中してしまうと、もう身を起こすことができないような気がしたのである。ぐっと肘に力を込めると、斬りつけられて割れた背中から血が溢れ出るのを感じた。もう立ち上がることは難しいかもしれぬと趙高は思った。それでもせめて跪いた体勢にはなりたい。目を見て話さねば、子嬰は趙高の国防の策を受け入れはすまい。

 秦滅亡の危機は、趙高にも一因がある。最大の要因であると言われても、趙高には反論する気がなかった。事実そうであったという自覚が趙高にはないではない。秦という国の行く末を考えたことがなかったのである。少しずつ国が歪んでいく様に胸がすく思いがした。それが今、秦の未来を考えている。如何にして秦という国を存えさせるかに命を張っている。趙高の瞳の奥底にある愛国心を子嬰に見てもらいたかった。

 子嬰は相変わらず、何か喋っていた。響きから察するに侮蔑の言葉か何かであろう。うつ伏せに倒れている趙高には、子嬰の靴と足元を見るのがやっとである。顔は見えない。

 予感はしていた。趙高とて似たようなことをしたことがあった。訪いを入れると、趙高のことを待っていたかのように、すぐに案内を受けた。それで子嬰が趙高を亡き者にしようと企んでいるのは予測できた。構わずに子嬰の屋敷に足を踏み入れたのは、覚悟を決めていたからである。国防に子嬰の存在は欠かせなかった。

 予想外であったのは、子嬰と対面したと同時に背中から斬りつけられたことである。まだ言葉は何も交わしていなかった。挨拶すらである。椅子に着座した子嬰の姿を認め、病というのはやはり嘘であったかと知った瞬間に、趙高は背中に衝撃を覚えて突っ伏してしまった。「待て、韓談かんだん! まだ止めは刺すな」と子嬰が言ったことで、趙高は自身が斬撃を受けたことを知った。

 子嬰の教育係を担っていた宦官の名が韓談であったろうか。朧げに顔を覚えてはいたが、確認のしようがなかった。子嬰の顔もであるが、背後にいる、趙高のことを斬りつけた人物の顔も見ることはできない。

 もう一度、趙高は右肘に体重を載せた。咳き込みそうになるのをぐっと堪えた。上体を少し起こせたので、できた隙間に左手をついて、呻きながら床を押した。どうにか身を起こすことはできそうであると思ったのも束の間、趙高はまた突っ伏してしまった。どうやら韓談に足蹴にされたようである。

 もう趙高は、起き上がることを諦めて口を開いた。

「し、子嬰殿下!」

 趙高は叫んだ。叫ばなければ、意識が途中で飛ぶと思った。趙高の気迫に押されてか、子嬰が黙った。

「徴兵を。五万、少なくとも三万をただちに武関ぶかんへ!」

「間もなく冥土へと旅立たんとするのに、まだこの国を蝕もうとするか。どうあったら、そなたは満足する。関中から人が消えたときか?」

 頭上から降り注ぐ子嬰の言葉は、抑揚がなく冷たかった。

「違う! 違いまする!」

 趙高は、子嬰のくすんだ靴をじっと見ながら喚いた。栄耀栄華とは無縁の子嬰が一声かければ、それで民は奮うのである。顔を突き合わせて、子嬰にそのことを教えたかった。

「祖父上の築き上げた帝国は、直になくなろう。ご先祖が守り抜いてきた、関中のこの領地もなくなるやもしれぬ。それでもまだ足りぬか?」

「殿下! 策はまだ尽きておりま……」

 咳が出て、趙高は言葉を最後まで紡ぐことができなかった。目が霞みはじめていた。もうどれだけも言葉を発することはできぬであろうと趙高は感じた。

 子嬰の目を見なければ――趙高の邪心のない目を子嬰に見てもらわねばならぬと趙高は思った。言葉で説き伏せることはもう無理であると悟っていた。説得に必要なだけの言葉数を発することが難しい。

 趙高は力を振り絞って身を捩った。仰向けになろうと思ったのである。そうすれば、子嬰の顔がまた目に入る。覗き込んでもらえたら、子嬰と目を合わすこともできる。

 喘ぎながら、趙高は身体を反転させた。勢いを加減できずに転げたため、傷口を強く床に打ち付けてしまい、趙高は呻いた。痛みから涙が溢れてくる。霞んだ視界に涙が膜を張って、子嬰の顔ははっきりとは見えなかった。ぎゅっと目を瞑って、涙を零しきろうとしたが、すぐにまた溢れてきた。 

「冬……までの、勝負にござ、い」

 それ以上はもう声にならなかった。情けない喘ぎまじりの吐息が漏れるばかりである。冬までの勝負との言葉の意味を子嬰は解すであろうか。韓談が気づき、その後の策謀を趙高から引き継いでくれるのでもよい。趙高にはもう願うことしかできなかった。ぼやけた視界の先の子嬰を見つめた。子嬰の双眸どころか、輪郭すらもはっきりと捉えることが難しかった。

「奸賊の言葉に耳を貸す気はない」

 そう言って、子嬰が剣を抜いた。

 刃と鞘の擦れ合う鈍い金属音を耳にして、趙高はこれまでかと悟った。死を怖いとは思わなかった。趙高は一度死んでいる。宮刑に処されたときのことである。男としての生に別れを告げ、人ではないものとして過ごしていかねばならぬ生涯を受け入れねばならなかった、あのときのほうがよっぽど恐ろしかった。生物的な死は、ただの終わりである。今、趙高を苛んでいる痛みからの解放でもある。恐怖は微塵もなかった。 

 だが、悔しさは満ちていた。かつての趙高は、紛れもなく奸賊の類であったろうが、今の趙高には、誰よりも秦という国を守りたいとの思いがある。おそらく、それは子嬰よりもずっと強い。国防の策は確かにあるというのに、それが伝わらない。もはや伝えることも能わない。

 秦が滅ぶかもしれぬ。それが哀しかった。秦という国が毀れてしまうことを願い、散々毀れるように仕向けてきたくせに、勝手なことを思っている自身に趙高は呆れた。いっそ喜んでしまえば、気が楽になるのやもしれぬ。しかしもう心が受け付けなかった。また涙が溢れてきた。今度は痛みのせいではなかった。

「止めを刺してやるのは、そなたにとって救いであるかもしれぬ。命の糸が切れるその瞬間まで、そなたは苦痛に悶ながら、己の悪行を顧みるべきである。しかし余にはそれに付き合ってやるだけの時間がない。領民を危機から救わねばならぬ。そなた一人にかかずらってはおれぬのだ。温情である。受け取れ!」

 絶対に目は瞑るまいと決めた。身体は抜け殻となっても、趙高のまなこには想いが残るはずである。それが子嬰に伝わることを願った。

 子嬰が頭上に構えた剣を振り下ろした刹那、刃が光を捕らえて煌めいた。趙高は、負けじとかっと目を見開いた。

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