二
「王になりたいと思うたことなぞ、一度もないわ!」
目一杯に床へと投げつけた木簡が激しい音を立てた。
傍らに控えていた官吏が木簡を拾ったが、それを
「これは真に
「持って参った使者はそう申しておりました」
「……然様か」
趙高は、もう一度劉邦からの返信に目を通した。
文面はまるで要領を得ない。趙高のした、開城の申し出に対する回答らしきものはない。それどころか、趙高が内応の見返りを欲したかのようなことが書いてあった。
男であった頃にも王にならんとの野心を抱いたことはない。ましてや子孫を残せぬ中人の身になってからは、夢にも見たことはない。王になりたがっているとの解釈ができるような文言を趙高が書くはずはない。当然書いた覚えもない。そうであるのに、この返信である。劉邦は意図的に趙高の申し出を捻じ曲げている。つまり、交渉の余地はないとの意思を示していると思われた。
劉邦は、存外無欲な男であったのやもしれぬ。劉邦という男を見誤ったのか。趙高はそう思った。いや、趙高の企てを見透かすだけの知恵が劉邦にあったとしたら――。そして、関中の一部のみならず全土を求めるほどに欲の深い男であったとしたら――。趙高は、劉邦を見くびっていたのかもしれぬと肌が粟立った。
とにかく、懐柔できぬとあらば、
もう
「
あとは即位式を残すのみであった。危急存亡の
勅令による徴兵だけが、残された唯一の手と言えた。調練を施す暇はない。まともに戈を振れぬ者たちに国防の名誉を抱かせて、散っていってもらうしかなかった。冬が厳しくなる頃まで守り抜くことができたなら、項籍の軍も劉邦の部隊も雪に阻まれて、陣を退かざるを得なくなる。一ヶ月か二ヶ月か、雪が深くなるまで、兵とも呼べぬ民の屍を積み続ける。それで雪融けまでの猶予を得られれば、新たに打つ手が生まれてくるのである。
今は倒秦という共通の目的のために兵を動かしていても、叛乱軍は烏合の衆である。兵を退いたら、咸陽だけを見ていた叛乱軍の諸将の目は、各々の利害にも向くようになる。叛乱軍が瓦解するようなことはなかろうが、籠絡して秦の味方につけることのできる者が、諸将の中には必ずいる。また
「殿下はまだか? 使いを出して急がせよ」
秦が滅ぼうとしているのに、子嬰はそれを察していない。所詮は人柄だけの人間かと、趙高は唾棄した。君主の自覚もなければ、才覚もない。趙高は、いっそ子嬰も殺してしまうかと思案したが、すぐに考えを改めた。子嬰以上に民を戦地へと駆り立てられる人物が他に見つからなかったのである。
人がいない。この難曲を乗り切ることができる皇帝に相応しい人物だけではない。前線で勇ましく剣を振るう将軍も、舌先で戦局を覆すことのできる調略を担う謀士もいない。殺しすぎたのかもしれぬと趙高は思った。
罪を着せて殺すことに、罪悪感を覚えたことはない。趙高の父は無実の罪を着せられて殺された。母はそれに連座して処刑された。趙高と弟の趙成が男でなくなったのもこのときである。趙高にとって、人を死に追いやるのは復讐に過ぎなかった。己の人生が捻じ曲げられたのであるから、他者の人生を捻じ曲げたってよかろうと思っている。趙高はそうする権利を有していると信じていた。
趙高の人生は、ある日突然変わってしまったのである。そうした理不尽を許した秦という国に対する復讐でもあった。秦なぞ滅んでしまえばいいと心のどこかで思ってきた。秦という国が大きな
「お待ちください! 狼藉は困ります!」
執務室の入り口のほうが騒がしかった。
「どけ! 丞相にお伝えせねばならんことがある」
娘婿の
追い返そうとしてしがみついた二人の衛兵を閻楽は引きずって入室してきた。閻楽にしては、いつになく豪快である。
趙高は、「よい」と手で合図して、衛兵を下がらせた。
「顔色がよくない。婿殿、如何した?」
「おかしな噂が広まっております」
「噂とは?」
趙高がそう問いただす前に閻楽は続けていた。自身は謎掛けのような問答を仕掛けることを好むくせに、趙高は他人にもったいぶった報告をされるのが嫌いであった。閻楽に対しても、報告は端的に要点だけを伝えよと叱り続けてきた。そうした教育が実ったのかと思ったが、どうも切羽詰まった状況がそうさせただけのことであったようである。
「義父上が王になるとの噂が流れております。殿下の首を手に降伏し、その見返りに関中の半分をもらいうけるとの密約があると」
劉邦からの返信の意味を趙高はようやく悟った。噂は、劉邦の間者が振りまいたものに違いない。そうした噂があたかも事実であるかのように、劉邦は返事を寄越したのである。子嬰が未だに出仕しないのも、こうした噂を聞きつけたからであると推測できた。
その推測を裏付けるように、子嬰のもとへ送った使いが戻ってきて、こう報告した。
「子嬰殿下は病に臥せっておられるようです。即位式は日を改めて行いたいとのこと」
間違いなく仮病である。趙高に暗殺されることを怖れて、子嬰は出仕しないのであろう。
趙高は椅子から立ち上がった。
「殿下を見舞う」
「義父上、お供は?」
「いらん」
「せめて私だけでもお連れください」
追いすがる閻楽を、また「いらん」と言ってぴしゃりとはねつけた。
誰かを伴ったら、子嬰は会おうとしないであろう。単身出向いていったとて、会ってもらえるかはわからぬ。しかしそれでも会わねばならなかった。門を蹴破ってでも会って、噂は荒唐無稽なものであると伝えねばならい。そして、如何にしてこの国を守るのか、子嬰を説き伏せねばならない。国防の策を持つのは、己のみである。趙高はそう思っている。
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