五章 趙高
香蕉の生き方
一
叛乱軍の主力である
腹立たしいのは、章邯が生きていることである。男ならば、二十万の兵と共に戦って、死ぬべきであった。用意された死に場所があったというのに、兵を見殺しにして、自身は叛乱軍の将の一人として、のうのうと生きている。章邯を捕らえた暁には、車裂きにしてやろうと趙高は決めた。
目をつけたのは、
叛乱軍は
劉邦の部隊は規模や構成から察するに、捨て石である。好き勝手に暴れさせるつもりで編成した部隊であったはずである。撹乱と秦の兵力の分散が主目的であることは容易に推測がつく。であるのに、劉邦はまともに戦っていない。戦闘を極力避け、一路に咸陽を目指している。
その理由は、劉邦という人物を調査して合点がいった。劉邦は、
ならば、招き入れてやればよい。関中の一部を劉邦の領地として認めてやって、関中王を名乗らせてやる。これまで味わったことのないような贅沢を数日させてやるだけで、劉邦はもう王位を手放せなくなる。
だが死闘を繰り広げてきた項籍は、これを面白く思わないであろう。関中王劉邦を認めようはずがない。楚の名将
問題ない。これまでも趙高は的確に人の性質を見抜いてきた。そうした能力には自信を持っている。問題ない。何度もそう呟きながら、趙高は親書をしたためた。
以下のような内容である。秦の戦力はもはや乏しい。天下万民のため、不毛な戦争は終わらせるべく、開城いたしたい。
項籍宛ではなく、何故、劉邦宛なのかとの疑義は生まぬであろう。項籍は、降伏した人々も殺してきた。話が劉邦のところへ行くのは不思議ではない。
親書を劉邦へ届けるよう手配して、趙高は私邸へ戻った。風が冷くなってきている。冬がまた近づいていた。私邸の門をくぐって、そのまま庭へ向かった。作業をしていた庭師たちが趙高に気づいて頭を垂れた。
「よい。続けよ」
庭師たちは、薄布で香蕉(中国語でバナナの意)の木の周囲に覆いを張る準備をしていた。
「今度の冬も越せようか?」
趙高がそう問いかけると、庭師は「尽力いたしまする」と答えた。
二世皇帝が即位したとき、南蛮より祝いの品とは別に香蕉の実が献上された。皇帝は食事のときに出されたその実を見て、傍についていた宦官に「そなたの失くしたものではあるまいか?」との軽口を叩いたそうである。その宦官が泣きながら趙高に漏らした。
男でなくなったことを誇る宦官はいない。どの宦官も陰茎と睾丸がないことには触れられたがらない。皇帝であろうと冗談の種にしてよいものではないのである。趙高は、皇帝をそれとなく諌めておくと言って、その宦官をなだめたが、結局、諌めなかった。諌め忘れたというのが正しい。腹立たしさや悔しさで満たされていたならば、趙高はすぐにでも諌めに行ったであろう。しかし、興味が勝ってしまったのである。
厨房へ行って、香蕉の実を求めた。皇帝が食べずに残した香蕉の実は、もう廃棄されてしまっていた。大方、おこぼれに預かって料理人たちが食したのであろうが、それを咎めたりはしなかった。
入れられた切れ目から裂くと皮はすんなり剥けた。黒ずんだ皮からは想像できぬほど、中の実は白かった。反り返っていて、確かに勃起した男のもののように見えなくもなかった。一口齧ると、甘さが口の中いっぱいに広がった。ねっとりとしていて、瑞々しさはなかったが、美味に感じた。一本丸々食して、不思議に思った。種子がないのである。料理人たちに種子はどこにあるのかと訊いたが、わからぬという答えであった。献上品を持ってきた南蛮の使者がまだ逗留していたので、その者に会いに行った。香蕉の実に種子はない。それが答えであった。
訊けば、香蕉は種子で殖やすのではないらしい。根本に生じた子株を分けて、殖やすそうである。自分が失くした物のような形状をしていて、種子がないということに、何となく趙高は親近感を覚えた。親近感は、子をなせなかった始皇帝の妾たちにも抱いたことがある。しかしそれはすぐに嫌悪感へと変わった。香蕉に対しては、それがなかった。栽培したいとさえ思ったのである。
使者に、南蛮へ帰ったら、香蕉の苗木を送るように頼んだが、寒い咸陽では育たないであろうと返された。それでも趙高は礼を弾むからと無理を言って、苗木を送るように念を押した。
それで趙高の邸宅の庭には、香蕉の木がある。寒さへの対策を何も施さなかった苗木は、すべて冬を越せずに朽ちてしまったが、薄布で四方を覆い、中でずっと火を焚いていたものは、三本だけ生き残った。その三本はどれも趙高の背丈より高く育っている。
庭師には、枯れさせても罰さぬ故、思うようにやってみよと言っている。この冬を越すことができなくとも、また南蛮から苗木を取り寄せるつもりでいた。試行錯誤を繰り返すうちに、いつか実を結ぶであろうと趙高は思っている。
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