望夷宮ぼういきゅうの門には衛兵が二人いた。

 閻楽えんがくにとって予想外のことであった。義叔父の趙成ちょうせいは、宮殿の守衛を統括する郎中令ろうちゅうれいである。その義叔父とは話がついているはずであった。衛兵に呼び止められようとは思ってもおらず、そもそも衛兵がいることも閻楽は想定していなかったのである。

 それ故、「何者か!」との誰何に、閻楽は思わず「咸陽令かんようれいである」と答えてしまった。それで衛兵は構えを解いたのであるから、名乗ったことは誤りではないのやもしれない。しかし、そのせいで問答が発生してしまい、斬り捨てる機会を逸してしまったのであるから、やはり失策であったろう。

 手勢は千ほど連れてきている。閻楽も官服ではなく、鎧を纏っている。皇帝の居所の入口で、この物々しさは不審である。

「何事にございますか? こちらには主上が御座します。閻咸陽令もご存知でございましょう」

 舅に謀られた。閻楽はそう思った。鎧の下に着る服の袖は絞られていて、手を差し入れることができない。仕方なく、厚手の布地の上から腕をさすった。直接肌に触れられないのがもどかしかった。が、閻楽はふと気づいた。ひりつきがないのである。

「そなた、所属はどこか?」

 自身の所属を衛兵が述べた。閻楽はその答えを聞いて、ほっとした。この二人の衛兵は義叔父の支配下にない者であった。いかに趙高ちょうこうの弟であろうと別の命令系統で動く衛兵に指図するのは難しいのであろう。ましてや門を守るなという指示は、どう伝えても怪訝に思われる。

 冷静に考えてみれば、舅が閻楽を亡き者にせんとするにしても、このような方法は取るはずがないのである。皇帝の居所を襲撃するなぞ、閻楽ひとりを罰してすむ話ではない。当然ながら、舅にも連座するほどの罪である。舅を疑った、このことを悟られないようにせねばと閻楽は思い、腕をさすった。ごわごわとした生地の厚みがもどかしく思えた。

 閻楽はすうっと息を吸い込んで、怒鳴りつけた。

「何も聞いておらぬのか!」

 きょとんとしながらも、衛兵が閻楽の語気に少し気圧されているのがわかった。続けざまに言葉を浴びせかける。

「賊が入ったとの報告を受けた。もたついておる暇はない。押し通るぞ!」

 衛兵を押しのけようとしたが、衛兵は踏ん張って動かなかった。

「お待ちください。我らはここをしかと守っておりました。賊が入り込むなどありえませぬ」

「賊がおるかおらぬかは確かめればわかること。いいから、通せ!」

「上に確認いたします故、しばしお時間を」

 応対していた衛兵がもうひとりに頷きかけて指示をした。

「咸陽令! 何をなさる!」

 応対していた衛兵が驚いて叫んだ。

 閻楽が上官に伺いを立てるためにその場を去ろうとした衛兵を背後から斬り捨てたためである。閻楽はそのまま抜きはなった剣を今度は応対していた衛兵の腹に突き立てた。

「お前たちが内応して、賊を入れたのであろう」

 衛兵は口をぱくぱくと開いたがもう言葉を発することはできなかった。息絶えた合図か、衛兵がびくりと大きく身悶えした。剣を伝ったその感触に閻楽の血がたぎった。

 衛兵を蹴飛ばして、腹に呑まれた剣を抜き、振りかざす。

「我らの行く手を阻むものは皆、賊である。躊躇うことなく打ち殺せ!」

 宮殿に入ると当然のように宦官や女中が何事かと閻楽の前に立ちはだかった。そうした者たちを閻楽は無言で斬り捨てた。五人も殺せば、もはや閻楽の前を塞ぐ者はいなかった。宦官も女中も逃げ惑っていた。手勢がそうした者たちに戈を打ちつける。

 柱の陰から様子を窺っているいる者がいた。その者がすっと奥に引っ込んだのを閻楽は見逃さなかった。

「賊の首魁は、向こうぞ!」

 百を従え、奥へ消えた者を追う。残りの兵には、宮殿内の人間をすべて捕らえるように命じた。

 逃げ惑う者たちの悲鳴は聞こえなくなった。宮殿の奥深くまでやってきたということであろう。

 豪奢な扉がある。閻楽は直感した。皇帝の居室に違いない。気持ちを奮い立たせるために大きく息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出す最中、そろりと少し扉が開いた。

 目が合った。先程、柱の陰から覗いていた宦官の目だ。その者は、怯えた表情を見せ、慌てて扉を閉めた。閻楽は、傍にいた十名だけを連れ、無遠慮に入室した。

 太った男がいた。どこか隠れられる場所を探そうとしていたのか、部屋の隅のほうで狼狽えていた。口髭と顎髭を蓄えている。宦官ではない。男である。

「主上にあられますか?」

 そう問うたのは、皇帝に目通りしたことがなかったからというよりも眼前の男が中華の主には見えなかったからである。赤く染められた派手な衣服には見事な刺繍が施されている。しかし、それを纏う男は、ぶよぶよと醜い。体格こそ、舅と変わらない。が、男には舅のような鋭さがない。ただ享楽を貪って蓄えた贅肉であろう。

 閻楽の問いかけに男は答えなかった。脇で震えている宦官を見やったが、代わりに答えはしなかった。しかし、答えねば、それが答えのようなものである。

「賊を討ちに参りました」

「賊……、賊とは狼藉するそなたらのことではないか」

 ぼそぼそと口ごもるように皇帝は言った。この世で誰よりも尊い人間であろうに、閻楽を一喝する気概もない。権威を嵩に威張り散らしてきただけの、中身のない哀れな男であると知って、少し面白くなった。

「賊とは主上に弓引く者のことではございませぬ。賊とは、国の秩序を乱す者のことにございます」

「朕が秩序を乱したと言うのか?」

 皇帝は心外であるとの表情をした。

「重い税を民に課し、納められぬ者をきつく罰しました」

「それは間違いではなかろう。法は厳格に行使されてこそであるぞ」

「しかし、民心を荒ませたのは、その厳格な法にございます」

「秦は代々、法治の国ぞ。この国の根幹を否定する気か?」

「いえ、法を否定しておるのではありませぬ。畏れながら、その行使者を否定しておるのです」

「無礼な! 朕のことを言うておるのか!」

 皇帝は震えながらも顔を赤くしていた。肥満した肉体の中で、自尊心もつられて肥大したのかと思うと、閻楽はさらにその自尊心を囃したい衝動に駆られた。

「さて? 私は大規模な叛乱が起きようとも闇雲に法の厳格さのみを追求した愚か者のことを申しておるのです」

「……知らなかったのだ」

「それこそ賊である証左。主上は、国家の主でありながら、国の秩序には興味をお持ちになられなかった」

丞相じょうしょうが言うたのだ。皇帝とは霊峰であると。大事にのみ携わるべきで、些事は手下の者に任せよと」

 丞相とは、閻楽の舅である趙高のことだ。

「国家の秩序は大事ですぞ。また叛乱もここに至っては些事ではありませぬ」

「国はよく治まっている。丞相がそう言うておったのだ」

「己の目で見ようとせず、ただ一人の言葉にのみ耳を傾けて、国を治める気でおられたのですな」

 皇帝は助け舟を求めるように脇の宦官を見やった。

「何故そなたは、朕に報告せなんだ? もっと早くに事態を知っておれば、如何様にも手の打ちようはあった」

「それ故、私は今の今まで主上にお仕えすることができたのでござりまする」

 宦官は躊躇いながら、そう口にして、閻楽のほうをちらりと見た。叛乱が起きていることを皇帝に伝えたのは自分ではないとの、命乞いの意味があるのであろう。

「……叛乱が大事に至ったと朕は知った。朕自ら討伐軍を編成する。丞相を呼べ」

「丞相は、病で床に臥せっておられます。しかしご心配なさいますな。善後策はすでに丞相が講じておられます」

「そうか! さすがは趙高である」

「次代皇帝子嬰さまの号の元、討伐軍を発する運びとなってございます」

「次代? 何を言うておる?」

 皇帝はあからさまに取り乱した。

「この世を憂い、この国の未来を案じて、どうか速やかにご自害くださいませ」

「待て! 一郡をくれれば、退位はする。それでは足らぬか?」

「足りませぬ」

「郡とは言わぬ。せめて万戸ばんこの所領を」

「なりませぬ」

 皇帝の顔は、血の気を失って今は白い。

「民になる。土に親しんで生きる。命ばかりはどうにかならぬか」

「ようございますが、主上に虐げられてきた民が赦しますまい。寄ってたかって嬲り殺されましょう」

 身の上をようやく理解したのか、皇帝はへなへなと崩れ落ちた。

「最期の頼みである。丞相に会わせてもらえぬか」

「義父は、賊には会いませぬ」

 閻楽が趙高の娘婿であることを知り、皇帝は、自身の命を欲しているのが頼みにしてきた丞相であることを悟ったようである。溜息を大きく一つ吐いてから、差し出した小剣を受け取った。皇帝は鞘を投げ捨てると、涙を流しながら、嗚呼と喚いて喉に小剣を突き立て、果てた。

 部屋に焚かれていた香の匂いが、今になって閻楽の鼻をついた。嫌な匂いである。閻楽はそう思った。

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