四章 閻楽

馬と鹿

「こやつらは鹿じゃ」

 閻楽えんがくが舅趙高ちょうこうの居室に通されるや否や、舅は閻楽に木簡を投げ寄越した。

 蝋灯りの中、不意に投げられた木簡をなんとか落とさずに掴み、閻楽は舅に気づかれぬよう小さく安堵のため息を漏らした。

 舅の口調はいつもどおり、抑揚のない穏やかなものであったが、閻楽は、舅の機嫌があまりよくないことを感じ取っていた。趙高の娘婿になって二十年あまりが過ぎている。表情に乏しくとも舅の機嫌の良し悪しは、なんとなくわかる。

 木簡を紐解くとなにやら名前が書き連ねてあった。燭台へと歩み寄り、木簡に灯りを当てた。朝議に参内する高官の名ばかりが記されていた。閻楽は咸陽令かんようれいで、首都咸陽の行政を任されてはいるが朝廷とは無縁である。従って、木簡に記された人物のほとんどは、名と役職を知るのみで面識はなかった。閻楽には、彼らが鹿と呼ばれる理由がわからなかった。

「鹿にございますか?」

 閻楽は寝入ったところを起こされ、呼び出されたのである。閻楽の自宅から舅の邸宅までは、充分に眠気を覚ませるほどの距離がない。それでも舅と対面する緊張から眠気はすでに飛んでいる。だが即座に謎掛けのような問答に応じられるほど、まだ頭に血は巡ってはいなかった。

「然様、鹿じゃ」

 察しの悪い閻楽に苛立ったように舅は繰り返した。

 このところ、舅は常にと言ってよいほど苛立っている。苛立って眠れぬ故、舅は朝を待たずに閻楽を呼び出したのであろう。

 苛立ちの原因は東方の叛乱にあるに違いない。鎮圧にあたっている章邯しょうかんの軍は、叛乱軍の大将であった項梁こうりょうを討ち取っている。しかし現況は苦戦を強いられているようである。援兵を求める早馬が幾度となく咸陽の大門をくぐっていた。新たな軍が派遣されたとは聞いていないが、叛乱はそのうち下火になるであろうと閻楽は思っている。楽観視するのは、肌のひりつく感覚がなかったからである。

 危機はいつも肌で察知してきた。神通力めいたものが自分には宿っていると閻楽は信じていた。身に危険が迫りそうになると、閻楽の肌はひりひりと焼け付くような痛みを生じるのである。最初は皮膚病の類を疑った。だがひりつきを繰り返す内に、それが自身に迫る危機と関連していると気づいた。不思議であるとは思わなかった。獣は天変地異が起きる前に挙って逃げ出す。そうした獣のような鋭敏な感性が閻楽には備わっているだけのことである。

 肌の感覚を頼りに前線へと送られぬよう根回しをしてきたため、閻楽にはさしたる戦功がない。秦が中華統一を果たした後も、肌で権力闘争をくぐり抜けている。もっともそれは舅の側にいるということと結果的には同義であった。

 むしろ、肌は今ひりつきはじめていた。脂肪を多く蓄えた、舅の白い顔が薄闇の中で陰も作らず、不気味に浮かんでいる。誤った受け答えをしたならば、舅は閻楽を殺すのではないかという気がした。もう随分と前から娘婿であるという甘えは閻楽の中にない。舅は閻楽の出世を助けてくれてはいる。事実、誇れる功績もないのに閻楽は首都の長官である。が、舅にとって閻楽の命は、おそらく舅の家僕のそれと変わらない。これまでのところ、舅の機嫌を大きく損ねず、落ち度らしい落ち度がないため、閻楽は生き存えているに過ぎない。

 閻楽は、恐る恐る舅の顔色を伺いながら、言葉を区切った。

「馬、に、あらず、ということですか?」

 舅が皇帝に鹿を献じた一件を思い出したのである。肌のひりつきが和らぐのを感じた。

 舅は先日、珍しい馬を捕まえたと嘯き、朝議の場で畏れ多くも皇帝に、あろうことか、鹿を献上している。馬ではなく鹿であると皇帝は笑ったが、舅は改めず、執拗に馬であると言いはった。それで参内していた複数の高官が割れた。ある者は鹿であると言い、またある者は馬であると言った。その場は、余興が過ぎたと舅が詫びたことで収まったそうであるが、鹿とは、そのとき皇帝の面前で正しく鹿と言った者たちのことに違いはあるまい。

「然様」

 満足そうに頷く舅に、閻楽はほっと胸をなでおろした。

「して、鹿は如何致しましょう?」

「各々の罪名は婿殿に任せる。捕らえよ」

「捕らえた後は?」

「罪に見合った刑罰を」 

 つまり舅は、自身になびかなかった者たちを消すつもりなのである。罪名は閻楽に任せると言いつつも、各々に死刑が相応しい罪をでっち上げろと言っている。

「明朝、すぐに取り掛かります」

 閻楽はそう言って、舅の邸宅を辞去した。

 自宅が近くなると、肌にちりりと痛みが走った。

 名を記されていた高官は八名。一人ひとりの罪をいちいち作り上げてから捕縛したのでは、時間が掛かり過ぎてしまう。それでは取り逃がしてしまう者が出るに違いない。勘のよい者は、あのとき鹿と言った者が囚われていると察し、姿を隠す。八人すべてを確実に葬らねば、閻楽自身の命が危ないのである。

「このまま出勤する」

 従者にそう告げ、庁舎へと足を向けた。

 肌寒さを感じた。季節は秋分になろうとしている。ひりつきはもうない。

 問答無用にまずは捕らえてしまうことが先決である。罪は後からどうとでもできる。夜明けを待つことはない。捕縛隊の編成が済み次第、それぞれの邸宅へ同時に差し向ける。一斉に捕らえてしまえば、取り逃がしたりはすまい。閻楽は、懐に入れた、舅から預かった木簡をぐっと握った。

 もしも自身が例の朝議の場に居合わせていたとしたら、閻楽は皇帝に偽りを述べ、生き存えることのできるほうの道を選べたであろうか。閻楽はふと考えた。首を傾げると笑みがこぼれた。馬と答えるのが正解ではないと気づいたからである。正解は、その場に居合わせないことである。

 いつであろうと危機は肌で感じ取ってきた。鼻で嗅ぎ分けられるものではない。それが閻楽の持論である。危機の匂いがしたのなら、そこは既に危地に違いない。

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