シフトアウト
「伊藤、お疲れさん」
お店のクローズ作業が全て終わった後の、誰もいない客席。作業を終えて私服に着替えて、少し休憩をしていると。
マグカップに入ったラテを、佐藤くんは静かに置いてくれた。きめ細かくスチームされたミルクは、バーカウンタの照明を反射させて淡く光っている。飲まずともわかる。これは美味しいミルクだと。
ウチのお店はクローズ後でもエスプレッソマシンの火は落とさない。だから余裕のある日にはこうして、クローズ後のビバレッジを作ってくれる佐藤くん。やっぱり彼は優しい。
「ありがとね、佐藤くん」
「手、大丈夫か。焦りすぎだろ、スチームノズルを素手で触るなんて」
今日は全てが空回りだった。気合いを入れて挑んだシフトだったけれど、まさかあそこまで派手にミスするなんて。
シフトインしてすぐに与えられたポジションはメインバー。つまりビバレッジを作り、お客様に手渡すポジションだ。
ラテにカプチーノ。カフェモカにキャラメルマキアート。オーダされる様々なビバレッジを作る上で重要なのは、蒸気で温めたスチームミルクを切らさないことだ。こと、今日みたいな週末の忙しい日はそれが特に顕著となる。
エスプレッソは約20秒で淹れられるけれど、スチームミルクを作るのにはどうしても2分以上かかる。忙しいピークを回すため、私は連続してスチームミルクを作っていたのだけど、ノズルを入れる角度を失敗してミルクを吹きこぼしてしまったことが今回のミスの発端だった。
すぐにノズルの角度を再調整しないと。普段なら水で濡らしたダスタを使ってスチームノズルに触るのだけど、何を思ったのか私は素手でノズルを触ってしまったのだ。
金属製のノズルの温度は言わずもがな。左手を火傷してしまい、反射的にノズルから離したその左手が、隣でバーフォローをしていた佐藤くんのメガネにクリーンヒットした。そして飛んだメガネは床を滑っていく。
拾わなければと思い咄嗟に屈んだら、一瞬早く屈んでいた佐藤くんにヘッドバットをしてしまった。あとはピタゴラスイッチよろしく、負の連鎖。
最終的に私は、なぜかエスプレッソ用に細かくグラインドされたコーヒー豆に塗れてしまっていた。まるでマンガのような展開である。
「佐藤くん、ほんとごめんね。メガネ壊しちゃって。あと頭ぶつけちゃって。手は大丈夫だよ。すぐに冷やしたし」
「伊藤にヘッドバットかまされるとは思わなかったぞ。メガネなら気にしなくていい。このスペアがあるし、あのメガネはもう古いしな。それより冷めないうちにラテ飲んでくれ」
いつもとは違う赤いメガネをかけて笑う佐藤くんは、本当に優しい。今はお店に2人きり。だから余計に、佐藤くんの優しさが身に沁みた。
サユリさんは終電の関係で、レジを締めたあと風のように帰ってしまっている。カギを持っているのは
2人きりなら、鈴木くんとのほうがよかったなんて、そんなことは思わない。いや、思えない。きっと鈴木くんとお店に2人きりなら、やっぱり間が持たないと思うから。
「伊藤。鈴木と2人のほうがよかったって顔してるな」
「……追い討ちかけてくるなぁ。忘れてよ、さっきのことは。恥ずかしいから」
「いや、伊藤のあの姿はなかなかレアだったからな。まぁ、おれの脳内だけに留めとくよ」
「そうしてくれると助かるけど。酷いなぁ、ほんと」
私は火傷をしていない右手で、マグカップを持った。佐藤くんが作ってくれたラテに、ゆっくりと口を付ける。それは甘いラテだった。なにかのフレーバーシロップが入っているのは間違いない。
バニラではない。キャラメルでもないしヘーゼルナッツでもない、あまり飲み慣れないフレーバー。これは、もしかして。
「……メープルシロップ?」
「正解。ウチの店にはないフレーバだけど、案外美味いだろ。知り合いからメープルシロップを大量にもらってな。ひとりじゃ使い切れないから、伊藤が気に入ってくれてよかった」
もう一度、メープルラテに口を付ける。とろりとしたフォームミルクとシロップが融け合う、柔らかな甘さがとても美味しい。どうしてウチのお店にはないのだろうかと不思議に思うほどだ。もちろん、佐藤くんの腕が良いのもあると思うけど。
何の気なしに窓を覗くと、雪は勢いを増していた。積もるかも知れない、これは。
「外、すげー雪だな」
「サユリさん、無事に帰れるといいけど」
「店長が出たときはまだマシだったからな。きっと大丈夫だろ。ところで伊藤の家って、歩ける距離だっけか」
「一駅だよ。歩けないことはないかな。佐藤くんも近かったっけ」
「あぁ、おれも一駅だ。でもまぁ、この雪の中を一駅歩くのは正直辛いな。時間あるなら、もう一杯飲むか?」
「私は明日休みだけど、佐藤くんの大学は?」
佐藤くんはニヤリと笑って、自主休講だと告げた。とても悪い笑顔で。
「それじゃあ、もう一杯お願いしてもいい?」
「おう、任せとけ」
「ありがとう。やっぱり佐藤くんは優しいね」
「優しいんじゃない。女の子に甘いだけだ。なんたって、名前がサトウだからな」
佐藤くんはまた、ニヤリと笑った。
──────────────────
「ねぇ、佐藤くん」
「どうした」
「好きでもない女からバレンタインにチョコレートを貰ったら、嬉しいと思う?」
佐藤くんが作ってくれた2杯目のメープルラテを飲みながら、私は訊いてみた。男性はどう感じるのだろうか。私はチョコレートを渡すことしか考えてなかったから、相手の気持ちにまで考えが及ばなかった。
今こうして落ち着いているからこそ思えたこと。鈴木くんにこのチョコレートを渡せたとして、彼はどう思うのだろうか。
「さっきの話は忘れてほしいんじゃなかったのか」
「一般論だよ。世の男性たちは、どう思うのかなって」
佐藤くんはラテを一口飲むと、大げさに腕を組んで答える。少し芝居がかった仕草で。
「嬉しいと思うぞ。少なくとも鈴木はそう思うはずだ」
「いや鈴木くんの話じゃなくて、」
「鈴木の話だろ、伊藤が答えてほしいことは。鈴木ならきっと喜ぶはずだ。あいつ、根が単純だからな」
クスリと笑って、佐藤くんは続ける。
「でもまぁ、そこがあいつのいいところなんだけどな。そんなところを好きになったんだろ? 伊藤は」
「……うん。そこが好きなんだ、私。底抜けに明るくて、難しいことはあんまり考えないあのシンプルなところが、とても好き」
言葉にすると改めて感じることができる。
私は本当に、鈴木くんのことが好きだったんだと。
「今日、鈴木くんにそれを伝えようと思ってたんだ。チョコレートと一緒に。でも考えれば考えるほど、自信がなくなっちゃう。こういうのってさ、タイミングが重要じゃん? なんか、神様がやめとけって言ってくれてるみたいに感じるよ」
「その口ぶりは、言わないつもりなのか」
「うん、もう言わないでおく」
「この先ずっとか」
「うん、この先ずっと。少なくとも、一緒にバイトをしているうちは」
「バレンタインに渡せなかっただけで?」
「うん。それに知ってるんだ。鈴木くんに好きな人がいるって話は。どこの誰かは、知らないけどね」
よく考えれば、バレンタインにいい思い出はなかった。その次の日が自分の誕生日だってことも原因なのかも知れない。
失意のまま誕生日を迎えることしばしば。あまり思い出したくない思い出だ。
私は足元のカバンから、例のチョコレートを取り出した。ラズベリーフレーバーのチョコレート。彼に渡すはずだったものを。
「ねぇ、佐藤くん。一緒にこれ食べようよ。メープルラテにはちょっと合わないかも知れないけどさ。意外と合う可能性もあるかも知れないし」
これを食べて、お終いにしたい。こうして悩むのにも疲れてしまったから。誰かを想い続けるにはカロリーがいる。チョコレートでは補給できないほどの、膨大なカロリーが。
綺麗にラッピングされたその箱に手をかける。一気に破って開けようとすると。それを佐藤くんの手に遮られた。
「とりあえず、それは置いとけ。開けてもおれは食べねーぞ。どんなに腹が減ってても食べない。おれなら餓死を選ぶな」
「餓死って、そんな大袈裟な。これ、ただのチョコレートだよ。手作りでもないごく普通の」
「それは記念に取っとけ。伊藤が鈴木を好きな証みたいなもんだろ」
チョコレートを掴んでいた佐藤くんの手が、ゆっくりと離れる。
証か。なるほどそうかも知れない。鈴木くんに好きな人がいるって聞いて、諦めてしまった私の気持ち。渡せなかったチョコレートは、私がただの根性なしだという証に他ならない。
人間は失敗を糧にして成長する。だから。私が成長したと感じられるまで、これは置いておこう。
「……なんか、食べるとか食べないとか言ってたら本当に腹減ってきたな。時間あるなら、何か食べに行こうぜ。雪も弱まってきたことだし」
「もう0時前だよ?」
「ロダンなら開いてるだろ。あの常連さんがやってる店。外でタバコ吸いがてら、電話で聞いてみる。伊藤は出られる準備しといてくれ」
そう言って佐藤くんは、外に通じる扉を出て行った。扉越しに聞こえてくる佐藤くんの声。電話でロダンに確認を入れてくれているようだ。
私はまた窓の外を眺めてみた。確かに雪は弱まっているけれど、まだ完全に止みそうにはない。それに、地面には少し雪が積もっていた。雪が積もらないこの街では珍しいことだ。
「伊藤、開いてるぞ。ロダンまで歩いて5分くらいだから、行こうぜ」
扉を少し開けて、佐藤くんが言う。舞い降る雪が、風に乗ってお店に入ってくる。暖かい店内の空気に触れた雪は、すぐに融けて水となる。
「準備できたか。店閉めるぞ」
「うん、大丈夫。行こう」
「雪、積もってるからな。気をつけて歩けよ」
外に出ると、やっぱり身を切るような寒さだった。温まっていた身体は一瞬でまた冷えてしまう。冷え性の私の手が再び冷たくなる。
道路に積もっている雪。歩きにくいけれど、たまにはこんな風景も良いかも知れないと思う。それに、積もる雪を見てこうも思った。
雪よ、覆い尽くせ。
私の恋心まで。
──────────────────
佐藤くんの言う通り5分ほど歩いて、私たちはロダンについた。落ち着いた雰囲気のお洒落なお店。確か、ピッツァが美味しいんだっけ。
私がロダンの扉を開けようと、再び冷え切ってしまった手をかけた時。佐藤くんが大きな声で言った。
「……しまった、家の鍵を店に忘れた」
佐藤くんが忘れ物なんて珍しい。苦虫を噛み潰したような表情をしている。いや、単に寒いだけかも知れないけど。
「一緒に戻ろうか?」
「いや、寒いから伊藤は先に入っててくれ。佐藤で予約してるから」
「いいの?」
「一緒に戻ってもらうのは悪いし今日は寒すぎる。ひとりで走ればすぐだしな。いいか、受付で予約の佐藤だって必ず言えよ。じゃあな」
そのまま踵を返して、ダッシュで走っていく佐藤くん。曲がり角で見えなくなるまで見送って、私はロダンの扉を開けた。
受付の人に「予約の佐藤です」と告げると、すぐに案内をしてくれる。
お店の中は暖かい。私は頭にうっすらと積もった雪を振り落としながら、店員さんの後をついて行く。
「お連れ様がお待ちですよ」
案内してくれた店員さんはそう告げる。
不思議に思って席を見ると、そこには。
私と同じように不思議そうな顔をしている人がいた。
──それは鈴木くんだった。
どうして、ここに彼が?
「あれ、伊藤さん?」
「鈴木くん……?」
「俺、佐藤に呼び出されたんだけど、伊藤さんも?」
「え? 佐藤くんに?」
その時、ポケットの中の電話が震えた。鈴木くんに断って、スマホのディスプレイを確認してみると。
スマホには1件のメッセージが入っていた。
「誕生日おめでとう、伊藤。おれからのサプライズプレゼントだ。例のブツを渡すもよし、渡さず自分で食べるもよし。でもここまでお膳立てしたんだから、後はわかるな? 武運を祈る。サトウ」
そのメッセージを読んだ私は。意を決して、カバンから例のブツ──ラズベリーフレーバーのチョコレートを取り出した。
「……あの、鈴木くん。これ受け取ってくれないかな。バレンタインのチョコレートなの。0時をまわっちゃったから、1日遅れになっちゃったけど」
「チョコレート? ありがとう、甘いの好きなんだ、俺」
ニコリと笑う鈴木くん。そのままの顔で、彼は自然にチョコレートを受け取ってくれた。
手は直接触れてない。チョコレートの箱越しなのに。
それでもこの冷えた手が。
じんわりと少しずつ、温まっていくのを感じた。
【終わり】
それでもこの冷えた手が 薮坂 @yabusaka
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