それでもこの冷えた手が
薮坂
シフトイン
あと少し。あと少しでバイト先のお店に着く。
寒空の金曜の夜。楽しそうな人々で賑わう街の中を、私はひとり黙々と歩いていた。
身を切るような冷たい2月の風。コートの襟を立て、首筋に風が当たらないように少し前かがみで歩く。今日の朝、家を出る準備に手間取ってマフラーと手袋を忘れてしまい、手がとても冷たい。
続くお昼。大学の学食では、まだ手をつけていなかったパンを2つとも床にダイヴさせてしまった。
加えて夕方には、お気に入りだったピアスを片方なくしてしまい、とても悲しい。今日はほんとに散々だ。
それでも。古来より、終わりよければ全てよしと言うステキな言葉がある。だから私は、今からのバイトにそれを懸けていた。今日のバイトで、予てからの目標を達成するのだ。なんとしても。
お店まであと10メートル。今日は彼と同じシフトの日だ。その彼にチョコレートを渡すこと。それが私の、今日の密かな目標なのだ。
お店に入ると、ふわりとコーヒーの香りがした。私のバイト先はコーヒーショップ。全世界に展開している大規模コーヒーチェーン店、緑のアヒルが目印のスターダックスコーヒー。
レジを通り抜けると、ストアマネジャーであるサユリさんが目配せをしてくれた。接客中だったから、私も少し頭を下げて挨拶をする。
ここでアルバイトを始めてもうそろそろ1年が経とうとしている。そこでほとんど同じ日に働き出した同期の彼、鈴木くん。
その鈴木くんに、チョコレートを渡したい。だって今日は、バレンタインデーだから。
今日のシフトインは19時から。仕事中は2人きりにはなれないから、狙いはシフトイン前か、お店のクローズ後になる。
鈴木くんも私と同じ時間のシフトイン。つまり、まさに今、バックルームに彼がいる可能性があるという訳だ。
もし、彼が1人でバックルームにいたのなら。その時にこれを渡そう。こういうのは早い方が良い気がする。手をこまねいて後手に回ってしまえば、渡す機会がなくなるかも知れないから。
さらりと渡せるだろうか。重い女だって思われたくないから、出来るだけ軽やかに、そして自然に渡したい。
扉の前で、ひとつ深呼吸をして。私はバックルームの扉を開けた。
目の前に、大きな背中が見える。
──果たしてそこに、彼がいた。
準備はすでに整っている。あとはこれを、彼に渡すだけだ。
──────────────────
「あの鈴木くん! これいつもお世話になってるからお礼っていうかその大した意味はないんだけど今日バレンタインだからイベントにと思ってだから受け取ってもらえないかな!」
前かがみでチョコレートを差し出した。勢いはいいけれど、しどろもどろになりすぎだ。これは耳まで真っ赤かも知れない。いやそうに違いない。だから顔は絶対に見せられない。
気まずい沈黙が流れる。何か反応してよと思うのだけど、やっぱり顔を上げられない。どうしよう、迷惑だったかな。なんて言えば良いんだろう、そこまでシミュレーションしていない。とにかく。なにか言わなければ。
「ご、ごめん突然迷惑だったよね、ごめん忘れて、これ自分で食べるから、」
「……とりあえず落ち着け、伊藤」
「ううんいいの、ほんと迷惑だったよね、」
「だから落ち着けって、伊藤。おれの声でわかれよ。おれは鈴木じゃねーぞ。佐藤だよ」
「え?」
そこでやっと顔を上げてみる。そこにいたのは、言われたとおり鈴木くんではない。
もう1人の同期であるバイト仲間。佐藤くんだった。
「佐藤くん……?」
「佐藤だよ。あのな、チョコレート渡すんなら、相手をきちんと確認してからにしよろな。完全に誤射だろ」
「あ、ごめん……」
「鈴木は今日、どうしても外せない予定があるらしい。なんか大学関係でって言ってたけど、とにかく昨日、シフト代わってくれって泣きつかれたんだ。だから悪いけど、鈴木は今日バイトに来ないぞ」
「そう、なんだ……」
「あからさまに気落ちし過ぎだろ。まぁいい、とりあえず着替えて来い。そろそろシフトインのミーティングだぞ」
佐藤くんにそう言われて。私は着替えを持ってのろのろと更衣室に向かった。
更衣室の中で大きな溜息を吐く。肺の中の空気が全部出るほどの大きな溜息だ。
とにかく切り替えなければ。鈴木くんは今日いない。だからってバイトを休む訳にはいかない。私は小さく「よし」と呟いて、持って来ていたドレスコードに袖を通した。
うちのお店には制服という概念がない代わりに、このドレスコードと呼ばれる服装指定がある。
黒か茶色系統のボトムに、白か黒のシャツ。それが指定されたドレスコードだ。色が指定の範囲内なら、別に何でも良い。ボトムはパンツでもスカートでも良いけれど、私のお気に入りは茶色のパンツに白色のシャツ、という組み合わせ。完全に鈴木くんの影響だ。密かに彼と服をお揃いにしていた、それは私の小さな自己満足だった。
着替えが完了して、やってしまったと改めて自己嫌悪に陥った。あぁ、私って何でこんなに粗忽者なんだろう。渡す相手をロクに確認もせず突っ走るなんて。
ちゃんとシフト表を確認したはずなんだけど。直前で交代していたなら、そんなのわかるハズないじゃんか。
はぁ。また溜息が出る。お店の中は暖かいけれど、私の心と指先はいつも以上に冷え切っていた。
私の触れるものは、全て凍り付きそうなくらいに。それくらいに冷たく感じる自分の手。息を吹きかけても、温まる兆しは一向に見えてこない。
バックルームに戻ると、ドレスコードに緑のエプロンを付けた佐藤くんが立っていた。手にはデミタスカップに入った本日のコーヒーが2つ。サユリさんも傍に立っている。イン前ミーティングの始まりである。
「それじゃミーティング始めようか。その前に、伊藤さんどうしたの。なんか元気ない?」
「そんなことないです。普通です」
私はそう咄嗟に返した。ストアマネジャー、つまりはこの店舗の店長であるサユリさんは「ほんとに?」と心配そうに言ってくれる。サユリさんは本当に気配りのできる店長で、私も心から信頼している。こういう些細な変化を感じ取り、事前に手を打ってくれる素晴らしい人なのだ。
でも、今だけは放っておいて欲しかった。バレンタインに想いの人が不在。つまりチョコレートを渡せない。だから気分が落ち込んでいる。
そんなことで、バイトとは言え仕事が疎かになるのは許されない。私は20歳、少女とはもう呼べない大学生だ。だから気合いを入れないと。
唇を真一文字に結び、前を向く。今は仕事のことだけを考えよう。悩むのは後でもいい。というか後の方がいい。そんな風に思えたから。
「ほんとに大丈夫? 体調悪いなら無理しないでね。それじゃ、始めます。佐藤くん、コーヒー渡してあげて」
佐藤くんに手渡されたのは、エスプレッソ用の小さなデミタスカップに注がれた、本日のドリップコーヒー。ええと、今日は何の豆だっけ。
「今日はケニアだね。アフリカ産のコーヒーだよ。佐藤くん、ケニアの特徴は?」
「グレープフルーツ、ベリーの風味を感じるシングルオリジンコーヒー。明るい酸味に程よいコク。ジューシーかつエキゾチックな味わい、です」
「うん、それ豆の袋のウラに書いてるケニアの説明文のまんまだね。でもそらで言えるなんてすごいよ、佐藤くん」
苦笑いのサユリさん。でも褒めるのも忘れない。素晴らしい人だ、ほんとに。
「それじゃ伊藤さん。ケニアを自分の言葉で説明できる?」
「コクもあって、酸味もある珍しいコーヒーです。ベリー系のチョコレートと相性ぴったり。是非ペアリングを試して頂きたいコーヒーです」
「エクセレント。素晴らしいね、伊藤さん」
にっこり微笑むサユリさん。褒めてくれるのは嬉しいけれど、今日私が持ってきたチョコレートがまさにベリー系のチョコレートだから知っていただけだ。
鈴木くんに渡すはずだったチョコレートは、ラズベリーのフレーバーのもの。鈴木くんは酸味の強いコーヒーを好んで飲んでいる。だから、それに合うんじゃないかと思って。って、今はそんなことどうでも良いのだ。
こんなんじゃ先が思いやられる。今日のシフトはストアクローズまで。それまでミスなく過ごせるだろうか。
「今日はバレンタインデーだし、きっとたくさんお客さんが来るはずだよ。ピークは6人体制だけど、クローズは私と伊藤さんと佐藤くんの3人。さぁ、今日も頑張ろうね」
にこやかに微笑むサユリさん。対する私の笑顔はぎこちない。
私は手を閉じたり開いたりして、具合を確認した。まだやっぱり冷たい。お店の中はこんなに暖かいのに。
鈴木くんがいない今日のシフトで。私の冷たい手は、温まるのだろうか。
フロアへ続く扉を開ける。
お店の入口の方を見ると、さっきまでは降っていなかった雪がちらついていた。どおりで寒いはずだ。
誰にも見えないように手で口を覆って、もうひとつだけ溜息を吐いてみる。
それでもこの手は、温まらない。
【続く】
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