忘れ物

「あいつ、まだ歌手をやってたんだな」

 天気予報で夜半には雨は雪に変わると言っていたが、雪はおろか雨すら降っていなかった。ぼんやりと明るい薄曇りの都会の夜空に桜の花が揺れていた。

「あいつって?」

「あいつは、あいつだよ」


 スクランブル交差点の片隅に、新曲の発売を知らせる広告がでかでかと掲げられていた。十年近く前に一曲だけ、誰もが一度は耳にしたことのあるヒット曲を世に出したシンガーソングライターだった。もっとも彼の名前も、それがどんな曲だったかも、私は覚えていなかった。


「みんな、地道に頑張ってるのよ」

「地道に頑張ってたって、世の中に忘れられたら消えたも同然だろ」

 何か恨みでもあるのか、彼は吐き捨てるように言った。

「世の中に忘れられたって、自分が忘れていなければ消えることはないわ」

「そういうものか?」

「そういうものよ」


「いけね」

 彼は突然立ち止まると、コートのポケットに手を突っ込みそう言った。

「いけね?」

「さっきの店に忘れ物した」

「忘れ物って、何を?」

「先に駅に行っててくれ。追いかける」

 彼は私の質問には答えず、踵を返した。あっと言う間に後ろ姿になっていた。


「ねぇ、何を忘れたの?」

「大丈夫。俺は忘れなかったから、消えることはないよ」


 彼が忘れ物のことを言ったのだと気づくのに、少し時間が要った。


 はらはらと頬に舞った桜の花びらは、妙に冷たかった。それは桜ではなく、雪の花弁だった。


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