翼候
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劉備は洛陽へ発った。一人で行かせるなんて事、法正はしたくなかったが仕方がない。劉備は大丈夫と言って聞かぬ。ならば法正は遠くから見守るだけである。劉備に危険が及べば自分が出て行けばいいだけだ。
劉備に任せたのは関羽と張飛に合流し、洛陽の王允と彼に籠絡された呂布を味方につけ楼桑村へ導く事である。呂布と董卓を引き離す事で董卓周辺は手薄となる。董卓は呂布を警戒するだろう。だがそれでいい。董卓とてこんな田舎で殺されるとは思っていない。もちろん、劉備の願いであるため殺しなどするつもりは毛頭ないが。貂蝉の美人計、離間計――連環の計が鍵となる。失敗はしないだろうが、何かあるとすれば行う前に何かが起こったくらいだろう。
法正は劉備の家の庭で木に背中を預けて腕を組みつつ、室内を眺めていた。室内では劉備の母が筵を編んでいる。時々見せる憂いの表情は朝からいない劉備を心配しているのだろう。劉備もそれはいつもの事のようで気にはしていないようだが。
「来たか」
法正は庭から出る。すれば遠方から見慣れた姿が見えた。貂蝉である。何かあったかと瞬時に判断した。劉備宅前で待てば貂蝉は少々困惑した表情を顔に漂わせる。
「孝直様、呂布が」
「呂布がどうした」
「……呂布が董卓の元に。恐らく呂布を籠絡する前にこちらへやって来てしまったのでしょう。如何致しますか」
面倒な事になった。法正は軽く舌打ちを零し、左手の人差し指を上下させながら頭を回転させる。このまま呂布を放置していれば必ず呂布は劉備に牙を向く。そもそもこの計画の鍵は呂布。彼さえ董卓から引き離してしまえば後は少し狂っても何とかなる。だが呂布という天下無双の猛将が居ると、難易度も跳ね上がる。
「――構わない。こっちで連環の計を実行しろ。憲英殿も居るから彼女と協力してくれ」
此処で連環の計を実行する――それは難易度が上がる行為だ。呂布は董卓を信頼している。信用はしていないだろうが。呂布はただの馬鹿ではない、董卓に着いていく意味は董卓が今誰よりも皇帝に近いからだ。
つまり、ようは董卓を蹴落とせば呂布も次第に離れるとも言える。
だがそれをするには連環の計ではなくともきっかけが必要だ。呂布が董卓の怒りを買ってくれれば一番楽なのだが。
「わかりました。孝直様は如何なされますか」
「俺はやる事がある。気になる事もあるしな」
貂蝉は左へ可愛らしく小首を傾げる。法正はそれ以上説明しなかった。気になっている事はあるが、確証がないため迂闊に説明が出来ない。
「何、気にするな。お前は自らの仕事をやってくれればいい。――もちろん、劉備殿を裏切れば殺す。お前の代わりなど憲英殿が居るのだからな」
貂蝉を嫌っている訳ではない。ただ法正からしたら劉備以外の存在など、現時点では信用も信頼も出来ないだけだ。それは憲英も同じ事。
「一つお尋ねしてもよろしいですか? 何故孝直様は玄徳様に心酔なされているのでしょうか。玄徳様中心に物事を考えられているのが不思議で……」
「愚問だな。劉備殿が劉備殿であるからだ。俺は劉備殿が劉備殿である限り佐(たす)ける」
法正のなすことは全て劉備を中心としている。劉備が許すなら法正も許すし、劉備が殺しを望むのなら法正はその人物を殺そう。今回も法正だって殺した方が早いと思っている。だがそれはしない。劉備のためだ。
「……劉備殿は英雄だ。王たる資格を持つ。王の器――それが劉備殿だ。だが、その器はまだ目覚めない。劉備殿は王になるべくして生まれたお方。それは曹操も孫権も敵わない。益州の地を得るその時まで劉備殿には辛酸を舐めて貰う。……そこからは俺が劉備殿という鳥を羽ばたかせてみせるさ」
「まるで玄徳様が皇帝になるとでも言いたげですね」
不愉快。貂蝉の顔には歪な表情が漂っていた。劉備が嫌いな訳じゃない。法正の言っている事が理解出来なかったからだろう。もちろん、わかってもらうつもりもないため説明するつもりは一切ない。
「なるさ。あの方は正当な王者の資格を持つ。正当な漢王室の後継者だからな」
「……孝直様、あなた――何者ですか。玄徳様が前漢の皇帝の末裔だなんて事は、この村の人間しか知らないはず」
一筋、貂蝉は汗を滴らせる。震わせた唇は艶やかに光る。ああ、彼女は予想したのだろう。法正は皇帝に連なる存在ではないかと。だがそれは違う、大間違いだ。
「俺はただの――劉備殿を羽ばたかせる翼だよ」
それ以上でもそれ以下でもない。劉備のために法正は在る。劉備のための刃となり、盾となり、脳となろう。それが法正の役目だ。
全ては劉玄徳が在るために。
「長話をし過ぎた。貂蝉殿、そろそろ戻った方がいいんじゃないか。怪しまれるぞ」
「……そうですね、わかりました」
貂蝉は踵を返し法正に背を向けて歩き出す。が、足を止め顔だけを少し法正へ向ける。
「孝直様、私もあなたが裏切らない限りはお味方致します。私も守りたい人が居るのです。その方を傷付けないのであれば、この力お貸し致しましょう」
それだけを言い残しゆっくりと遠ざかっていく貂蝉。彼女の思い人なんてどうでもいいが彼女が寝返るのは困る。董卓を失脚させるその時までは、彼女に餌となって貰う。
「さて、俺も動きますか」
後顧の憂いは絶っておきたい。劉備が汚い事を出来ないのであれば法正はこの手を汚す。劉備に平穏と幸福を捧げたいから。そう決めると法正はその場から姿を消した。そこには先ほどまでの平坦な地面があった。足跡一つすら、残さない地面が。
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