渦巻く影

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 同時刻――辛憲英は董卓の寝所にいた。董卓が閨の相手にと誘ってきたからである。だがもちろん、身体を重ね合わせる事はしていない。董卓を酒で酔わせ、己の膝を貸したくらいである。そんな董卓は先ほど部下に呼ばれて部屋から出て行った。憲英は寝台から立ち上がり、窓の外を眺める。どうやら騒ぎがあったようだがそれも劉備によって収められたそうだ。

「流石、玄徳様ですわ」

 劉備達が奮闘している。ならば己も成すべき事を果たさなくては。己の仕事は甘梅の籠絡。連環の計は貂蝉が行うだろう。だが、甘梅もまた籠絡が難しい人物である。彼女は甘家が有名になる事を望んでいる。ならそれを使って、どうにか籠絡出来ないものか。

憲英は寝台から立ち上がり服を正せば部屋を出て行く。そもそも甘家は董卓に依存しており、董卓が居なければ所詮田舎の土豪に過ぎない。その威光はかつてこの地域一帯を治めていた土豪、劉家に劣る。ゴロツキではあるが村人に慈悲を与える劉備や、病弱であるが誰にも優しく何事も率先して動く劉備の母の方が慕われているくらいだ。

「あら、憲英。仲穎様の奉仕は終わったの?」

 廊下を歩いていれば近くの書庫から甘梅が出て来た。彼女は竹簡を脇に多数抱えている。甘家を盛り立てるための勉学だろう。彼女は女性でありながら武芸に秀でている。武芸で役に立てないのなら憲英のように知略で役に立とうと考えているらしい。

「はい、終わりましたわ。甘梅様は勉強ですの?」

「そうよ。それより、憲英少し聞きたい事があるのよ」

 甘梅は空いている左手で憲英の右手を掴み、先ほど出て来た書庫へ入った。薄暗く蝋は灯っていないが、外からの日の光が室内を軽く照らしてくれていた。

「仲穎様が奉先殿を呼び出したのよ。その時の奉先殿、少し怯えた顔をしていらしたわ。あなたならわかるかと思って」

 劉備と組んでいるのでしょう。甘梅は隠さずそう告げる。殺される心配もしないこの女性は警戒がまるでなかった。信用されているのかそれともわざとなのか。彼女に己が劉備と組んでいるとバレたのは自然な流れ。この村で劉備と交流のある憲英が彼に尽くさない訳がないからだ。そんな甘梅の質問を憲英は見当がつかない訳ではない。劉備側の状況については法正が逐一報告を入れてくれている。恐らく、呂布の怯えの原因は貂蝉だ。

「そうですわね。……きっと貂蝉様が関係しているかと思われますわ」

「貂蝉が? 何故?」

「奉先様は貂蝉様と密会しておいでなのです。王允様と密接な関係にある奉先様は王允様の言葉を伝えるため、そして仲穎様の妾である貂蝉様と話すためでしょう。いくら奉先様が仲穎様の養子であるとはいえ、貂蝉様と奉先様は歳も近い。年頃の男女を仲穎様が一緒に居させる訳にはいきませんから」

 貂蝉と呂布の関係は、形式上は親子である。貂蝉が董卓の妻であるため呂布は貂蝉の息子という事になる。だが二人はそう思っていない。お互いを信頼し、信用し、そして――心を通じ合わせているふしがある。呂布は貂蝉を思っているが、貂蝉の方は呂布を利用しているだけだ。それは貂蝉の目的である、董卓を失脚させるという事から窺える。

「……貂蝉が何かを企んでいるのは知っているわ。あなたもそれを知っているの?」

「いえ、わたくしは何も。ただわたくしは仲穎様の世話係としてこの屋敷にやって来ただけですので。……甘梅様は何か疑問を持っているので?」

 甘梅は少しねと声を漏らし、そして自分を抱くような立ち姿で顔を逸らした。何か思う事があるらしい。憲英は彼女の手を取り、両手で包み込む。

「この憲英に話して頂けませんか? わたくしが信用出来ないのはわかっております。ですが話す事でわたくしは甘梅様を助けて差し上げられるかもしれませんわ」

 甘梅は少し訝しげに憲英を見つめる。憲英は甘梅から視線を離さなかった。じっと彼女を見つめる事でその心を見せようとしたのだ。

「……貂蝉は仲穎様の失脚を望んでいる。だから劉備に協力する。なら貂蝉は、仲穎様と奉先様を仲違いさせるつもりではないかと私は思うのよ」

 流石、ただの馬鹿ではない。それは的を射ていた。だが憲英は顔に出さず、甘梅の話を大人しく聞いていた。

「貂蝉は悔しいけれど美人よ。気立てもよく気品もある。武芸にも秀でているし知略もあるわ。天が二物も三物も与えたようにね。だから仲違いさせるために仲穎様と奉先様に近付いたのだとしたら……」

「……その可能性はありますわね。そうなれば、貂蝉様も奉先様も仲穎様から離反する可能性も無きにしも非ずというところでしょうか」

 予想の範囲内なのだけれどあなたはどう見るかしら。甘梅の質問に憲英は彼女から手を離し、己の右手を首に添えて考える。これが憲英の考える癖だった。劉備が唇に指を乗せるのと同じだ。

「私見ですが……今すぐ離反という事はないように思われますわ。そんな事をするならば最初から離反しています。まずは、己の安寧を図るために仲穎様に自分は敵ではない事を証明し、安心させ信用を回復させるでしょう。ですから、もし、離反するとしたらしばらく経ってからだとわたくしは思いますわ」

 憲英は首から手を下ろし、肘から先の細い腕を伸ばし憲英は甘梅に語る。

「なら、対策出来る時間はある、と」

「もちろんですわ。ただ確証がない今、何も出来ませんので……まずは調査しなければいけませんわね。如何致しますか、甘梅様」

 問う意味もないだろう。最初から甘梅の答えは決まっている。彼女は腰に手を添えて、仁王立ちするような姿勢を取れば勇ましく宣言する。

「もちろん、調査するわ。憲英、着いてきて頂戴。まずは奉先様の元に行――」

 部屋の外から聞こえる足音によって甘梅の言葉は遮られる。二人は顔を見合わせ、外へ出ては近くの官吏を捕まえる。董卓の臣下だ。

「どうしたのよ、何かあったの?」

「こ、これはこれは、甘梅様! 何でもございませぬ!」

 捕まえた官吏は甘梅が止める声も聞かず走り去っていく。これは何かあったに違いない。憲英もすぐに理解した。恐らく、呂布と董卓に何かあったのだろう。向かうしかないと憲英は甘梅と共に人の流れる方向へ進んでいく。その場所は、董卓か改造に改造を加えた一室――絢爛豪華な調度品に装飾品が施された応接間である。そこに董卓と呂布はいた。董卓は煌びやかな椅子に脂が大量に乗った巨体を下ろし、呂布は膝をついて董卓を見上げている。二人に流れる雰囲気は剣呑としていた。

「――戯言を抜かすな! 呂布よ!」

 董卓の手に握られている短戟が呂布へ向かう。呂布は身体を左へ僅かに逸らし短戟の攻撃を避ける。短戟はちょうど部屋に入ろうとしていた甘梅の眼前へ。憲英は彼女の手を引き己の胸へ引き寄せて短戟を避けた。こちらへやって来ようとしていた董卓の臣下一人の頭部に穿たれ、頭部は割れる。

「母に、わしの妻に恋慕を抱いているのだろう! 我が妻、貂蝉に! 貴様、母親に恋慕の情を抱くとは何たる不義! 貂蝉も貴様のような獣に恋慕の情を抱かれて迷惑しておる!」

「義父上! 私はちょ――義母上(貂蝉)にそんな情を抱いた事はありませぬ! 私にとって義母上は義父上同様大事な家族でございます!」

「ふん、信じられるか。わしに隠れて貂蝉と密会するような奴の言う事など信じられる訳もない! 貂蝉がわしに泣きついてきたわ。横暴な呂布が来てわしに会う時間が減って迷惑していると」

 呂布の顔は蒼白となったままだ。何かを思い出すような、怯えているような彼の表情を見るのは初めてだった。彼が貂蝉と密会しているのは知っていたが、何故バレたのか憲英には見当もつかなかった。甘梅はまず言わない。何故なら言ったところで己の身が危なくなるからだ。貂蝉も呂布も言うはずがない。これもまた甘梅と同じ理由だ。

「……義父上、確かに、私は義母上と――いや、貂蝉と密会しております。その理由は王允殿の願いを貂蝉に聞き入れて頂くため。王允殿は貂蝉の身を心配に思われています。だから私は王允殿の言葉を貂蝉に伝え、貂蝉が洛陽へ戻るよう動いておりました」

「王允じゃと?」

「はい。今の義父上が私の言葉を聞き入れるかわかりませんが……もし、寛容なお心があるのであれば聞き入れて頂きたい言葉があります」

 まずい、呂布は全て言うつもりだ。憲英は甘梅から離れ即座に動いた。このまま呂布に伝えさせる訳にはいかない。

「仲穎様、何の騒ぎですの? 皆怯えていらっしゃいますわ」

「おお、憲英に甘梅。すまんな、何、ただの親子喧嘩じゃ」

 憲英はすぐに董卓の傍に寄れば彼に引き寄せられ、膝の上へ乗せられる。嫌らしい手つきで脚に触れられ、身体を密着させられる。ああ、これがまだ劉備や貂蝉ならまだ喜べたものを。だが顔に出してはいけない。憲英は安堵した顔つきで董卓の胸に顔を預けた。

「仲穎様、奉先様とあなたの喧嘩となると士気にも関わりますわ。劉備達が何かを画策している模様。あまりこのような事をするのはわたくしも、甘梅様も嬉しくはありません」

「ふむ……確かにそうじゃな」

 董卓は憲英を膝から下ろし右手の人差し指を呂布へ向ける。憲英に免じて許してやる、だが次はないぞ――という言葉を送って。

「は、義父上、有り難き幸せ」

「して、呂布よ、先ほどの言葉の続きを聞こう」

「そうですわ、仲穎様、先ほど貂蝉様がお呼びになっていましたの。それでわたくしと甘梅様はお伝えに参りましたのですわ」

 まずい、ダメだ、伝えさせてはいけない。董卓は考えるような素振りを見せるも「今は呂布の話が大事じゃ」と聞き入れてくれなかった。董卓とて馬鹿ではない。憲英に悟られず、あくまで両方を尊重した言葉だろう。だがこれは非常にまずい。どうするべきか。そんな時だった、甘梅は憲英に耳打ちをする。

「貂蝉を探してきて。此処はわたしに任せて頂戴」

 大丈夫、上手くやるわ。わたし、これでも仲穎様の妻だから。幼いながらもその顔に微笑みを漂わせ覚悟を見せる甘梅。憲英は彼女を信じこの場を託すと部屋から出て行った。

 甘梅もまた、甘家の一員だと気付く事が出来ずに。


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