それは受け入れがたきもの
「何が言いたい」
呂布に刃のような瞳で睨まれる法正だが飄々としていた。まあ、法正があまり表情を変える事はないため、いつも彼は飄々としているが。
「いや、ただ――董卓はお前の事をどう思っているのかと思っただけだ」
何かを企む悪党のように法正は気味の悪い笑みを浮かべた。背筋が凍るほどの笑みだ。黙っていればそれなりの端正な顔立ちなのにと劉備は思う。
「お前を寵愛すると共に恐れもしているはずだ。そもそも、董卓という男は知略がない訳ではない。貂蝉とお前が密会している事も、俺達のこのような考えも、ある程度は想像出来ているだろう」
呂布の顔が強張った。呂布は勇猛果敢だが、心理には弱い。度胸もあり、武もあるが、臆病で狡猾。そんな印象を劉備は呂布に抱いていた。
「バレたところで貂蝉が取りなすだろうが、董卓はそれ以上に呂布、お前を訝かしむだろうな。その場で処罰は免れたとしても董卓は悪逆の塊みたいな男だ。お前を逃しはしない」
今免れても後々訪れる。貂蝉や王允が董卓を殺そうと覚悟した理由も今ならわかる。悲劇が起きる前に董卓一人の犠牲で収めたいからだ。今、天下は荒れ、今現在も黄巾党という農民の大規模反乱が続いている。そんな中での董卓の専横、宦官の虐殺――と続き国は滅亡へ向かっている。それを王允達は止めたいのだ。国家を思うが故の行動、国のため、大切なもののため彼らもまた戦っているのである。
「ふん、そんな事で私の心を乱そうと? 笑わせる」
「確かに、それだけではお前は揺るがないが……貂蝉殿が絡めばまた別だろう。董卓は、自分を陥れた女が貂蝉殿だと知れば――貂蝉殿に命の危険が及ぶだろうな」
呂布はその顔に怒りを見せた。瞬時に法正の懐へ向かうも、劉備達がすぐ動き法正の前へ出れば呂布の巨体を武器で防ぐ。呂布は劉備の剣で弾き返され、地を滑り手と足で減速する。
「……貂蝉は、殺させん。絶対に私が、俺が守る」
そう宣言する呂布の瞳には覚悟が宿っていた。その覚悟を劉備は知っているし、感じた事もある。それは、劉備が母を守りたいと思う気持ち、法正が劉備を助けたいと思う感情、関羽と張飛が劉備の矛と盾になりたいと願う思いそのものだった。
「劉備、私は貴様に猶予を与える。貴様達が義父上を狙おうとしている事を黙っておいてやろう。だが、貂蝉の身に危険が及んだ時、私は貴様を許さない」
「肝に命じておこう」
呂布は立ち上がると踵を返し目の前から去って行く。劉備は安堵したのもつかの間、すぐ関羽達に村人の安否確認を命じ、劉備もその場から駆け出す。だが呂布が暴れていたのはここ一帯だけだったようだ。この周辺は劉備の家の近く。つまり呂布は劉備を狙う予定だったのだろう。張飛が母の無事を確認しに行ってくれたおかげで母の無事は確認が出来た。倒れていた村人は他の村人が保護してくれていたようだ。呂布を劉備達が引きつけていたお陰だと感謝された。劉備達は劉備の家の庭へ移動し、先ほどの件について話し合いを再開する。
「にしてもやられましたね、劉備殿。これで呂布を警戒しなくてはならなくなった」
呂布は天下無双の豪傑。飛将とも呼ばれるほどの傑物だ。だからこそ董卓に寵愛されているし、その名は轟いている。呂布一人に敵軍が負けたという話も聞いた事がある。
「だが呂布が我らの事を言わないうちは大丈夫かと」
「それがそうもいかないんですよ、関羽殿。呂布にあなたや張飛殿みたいな義心はない。劉備殿を支えようというあなた方二人のような気持ちを、呂布は董卓に対して持っていない」
「それが何だと言うのだ?」
言葉の意味がわからなかったのだろう。関羽は美しい髭を右手で触れながら小首を傾げ、疑問を頭へ浮かばせた。
「呂布は北方民族の出です。我々漢民族のような道徳は持ち合わせていない。だから、呂布は董卓に唆され、かつての義父を殺害しています。呂布は利益だけで動く蛮族と変わりありません。そんな奴を理解出来るはずもない」
法正は腕を組み、劉備の父が存命している頃からある桑の木へ背を預ける。
「……俺達の事を言わないという事も、到底信じられる話ではない」
いつ裏切るかわかりません。という法正に劉備は今の状況がどれほど危険なのか改めて理解する。貂蝉が劉備達に味方している間は大丈夫だろう、問題は無いだろう。だがもし、貂蝉に何かがあり、もし、もし、劉備達から離反するような事があれば――劉備達は苦境に立たされる。
「ならどうしろって言うんだよ!」
「まあ、落ち着いてくださいよ。まだ、今は大丈夫だと思いますよ。それに策は成されるでしょう。董卓の怒りを買う事は出来ます。ですが、成された後、董卓は必ず我々に制裁を加えるでしょうね。……その後が恐ろしくもありますが」
呂布と董卓を引き離すため、呂布に董卓の怒りを買わせる。それが成されれば呂布を董卓から引き離せる。だが董卓が劉備達に何もしないという事は有り得ないだろう。何かを警戒していた方がいい。
「孝直、可能性としては思い当たる事はないか?」
「俺は神様じゃないんで、そう簡単に思いつきませんよ。俺の予想でしかありませんが……まず董卓なら劉備殿の精神を突いてくると思いますよ」
「精神?」
そう、精神。法正は首を縦に振って頷き桑の木から背を離した。
「そもそも董卓が劉備殿を殺さないのは金のなる木だから。劉備殿は董卓にとって利用しやすい子供。また金でも奪わせると思います。……それか殺しをさせるか、ですね」
「だが兄上はそんな事をせぬ」
「人間に殺しをさせる事なんて可能ですよ。俺なら劉備殿に殺しをさせるくらい一言二言で出来ますね。母親を人質にとって劉備殿の周りの人間を数人殺害し、殺しを行わなければ母親の身体を少しずつ刻んでいくと言えばいいだけですから」
従わなければ手の指を一つずつ切断したり、爪を剥いだりすればいい。そうすれば劉備殿は動く。董卓はそういうやり方を熟知している男ですよ――と法正は淡々と告げた。法正の言う通り、そんな事を言われれば劉備は動くしかなくなる。劉備は恐れを抱くもその心を押し殺し、胸の奥深くへ追いやった。
「一先ず、今は事が動くまでは俺達も静観するしかないかと思います。貂蝉殿や憲英殿が上手く動いていれば――策は成されるでしょう」
その後の策は俺がまた伝えますよ。それまでお三方は身体を休めてください、洛陽からの帰還後すぐでしたので疲れているでしょう。ではまた後ほど――そう言い残し、法正はまばたきをしている間に消えていた。相変わらず、つかみ所のない男だ。人かもわからない。もしかしたら仙人とかだろうか。
「孝直の言う通り、少し休むか」
腹も空いている。そう言えば関羽と張飛は自分達が食事を作ると言って屋敷に入っていく。劉備は桑の木の下を眺め、盗んだ金が大量にあるだろう場所を見つめた。
盗んだ金は数多。買官出来るほど、土地が買えるほど。だが人を救えるような金ではない。悪人からしか盗んではいないが汚れに汚れた金である事は確かである。この金を返すか、どうするか――未だに悩んでいる。放置しておく事も出来ない。いつか、己は役人に出頭するべきだろう。斬首か、それとも奴隷落ちか――奴隷落ちならまだマシなものだが。
「……まずは目の前の事か」
今は関係のない事である。劉備はすぐに頭から金の事を消し己の両頬を叩き、法正からの連絡を待つ事にした。
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