英雄で、悪党で、子供
涿郡、楼桑村(ろうそんそん)。漁陽から何キロも歩いた先にある小さな村である。貧困の村であり、涿郡内でも貧民が多い村だった。田畑は荒れ果て、土地柄故に凶作、重税に苦しむ一家が先日自害した――そんな不幸降り積もる村だ。
しかし、そんな村にも希望があった。
「よう、皆帰ったぞ!」
子供は纏めた髪を揺らしながら村の中央で声を張り上げる。すれば村人達が数十人やって来た。各家の当主達である。子供は上衣を脱ぎ上半身を風に晒す。ふくらみのない胸を。服を脱いだと同時に、服から落ちる小さな袋がたくさん地面に落ちた。それは硬貨と硬貨の摩り合う音が響き、人々に希望を与える。
「ほら、持っていけ。ちゃんと分けろよ、家族が多い家、病人が居る家は多めに盛っていけ」
「すまねえ、玄徳! これで今月も税を返せる……!」
「ありがとうねえ、玄徳。あんたは本当にこの村の英雄だよ」
玄徳――もとい劉備はゴロツキだ。何処かへ出掛けては必ず金を奪い、こうやって貧しい村人に与えている。元々ゴロツキだった訳ではなく、村の盗人連中と関わるようになってからゴロツキになった。しかし、劉備の悪は善である。己が汚れる事で、誰もが救われるのなら劉備は喜んで汚れる。そういう男である。
税が払えなくては死んでしまう。野垂れ死ぬ。十六歳以上の男達は黄巾の乱討伐の義勇軍として連れて行かれ、働ける人手も少ない。そのため、そういう村人を救うため、劉備は己が汚れる事を選んだ。もっとも、最初は病気の母のために立ち上がっただけだったが。
「英雄なら、こんな事しねえだろうさ」
「いいや、あんたは私達の希望だ。皇帝より、お役人より、あんたは私達の神で大徳だよ」
こんなゴロツキを大徳なんて変わっている。劉備は自分の分け前を取れば、あとは村人に託しその場を後にした。そして様々な村人の家を通り過ぎ、やって来たのは木々生い茂る森のすぐ傍にある小屋だ。それが劉備の家である。そっと戸を開けて周囲を確認し、安堵の息を吐く。――瞬間、後ろから劉備の頭に拳骨が落ちた。
「――ッ! 痛ってえな! 何すん……だ……」
血の気が引いた。そう、相手は逆らってはいけない人物だったからである。
腰に手を添えて仁王立ちをしている黒髪の別嬪。劉備の母親である。小さな背中、肉付きの悪い身体に青白い肌――彼女は病を煩っていた。彼女はこめかみに青筋を立てて、血管を浮き出させて劉備を睨み下している。何故怒られたのかは理解出来ているため強く反抗出来なかった。母は劉備を強く見下ろし、劉備は一歩後退する。
「いや、あの、ち、違うんです……その、ほら、紅茶! 紅茶が飲みたくて!」
「盗んだ金で飲んだものが美味しいものか。第一、備、私はいい加減に盗みを止めろと言ったはずだけれど? 皆にもて囃されて喜んでいるのならあんたの男が知れるな」
それはごもっともなので何も言えない。劉備はどうにか話を逸らそうと考える。だが母にそんなもの通用しない。蛇のように睨まれ、劉備は小動物が如く小さくなる。
「全く、母は悲しいよ。前漢の皇帝の血を引く我が劉家の当主がこんな盗人だなんて。私はご先祖になんて顔を合わせればいいんだい」
死人に口はないのだから顔も何も合わせるものなんてないのではないか。劉備はそう思ったが、母から凄い顔で睨まれてしまい瞬時に顔を逸らした。母親は呆れ顔を漂わせ劉備へ手刀を落とす。劉備は頭を押さえ痛みで蹲った。頭を押さえつつ涙目で母親を見上げる。
「……全く、いい加減に母さんを安心させておくれよ」
劉備は苦笑いでその場を切り抜けようとするが、母親によって拳骨を落とされその場に沈む。彼女が自分の傍を通り過ぎて家の中へ入っていくのを見れば盛大な息を零した。
劉備の母は病を患っている。もう十年以上にもなる。物心ついた時から母親は病を患い、外へ滅多に出られなくなり日に日にやせ細っていった。父親が病で死に、母親は劉備を女手一つで育てた。そんな劉備は、母親を助けたくて、母親を洛陽の医者に診て欲しい、ただそれだけのために犯罪に手を染めている。薬を買う金もなく、薬草を採るにもこの辺りにはない。どれほどの罪を重ねても母親の身体は快方に向かわない。劉備は焦っていた。だからこそ、どんな罪でも重ねてただ母親を助けるために動くのだ。
劉備は身体を起こせば玄関先に置いてある筵(むしろ)を抱え、家を出ては村の中心部に向かう。井戸のある場所へ辿り着けば、その隣に腰を下ろす。井戸は村人が利用するため、利用者を相手に筵を売りつけている。ほぼ押し売りで、脅して売っているが、劉備がこの村人のために金品を与えているため誰も断る事はしない。そもそも筵の値段なんて高くはないし、税やら生活費を抜いても十分生活出来る。
「やっぱり今日も此処ですのね、元徳様」
「憲英(けんえい)」
「あ、筵をお一つくださいな」
黒髪の女性劉備の隣に腰を下ろした。耳の下で左右の髪を纏め、後ろの髪を一つに纏めて垂らしている。淡い水色の漢服を着用しており、その服装だけで彼女は普通の庶民ではない事は確かだった。所作も作法も、彼女は庶民ではない。
辛憲英(しんけんえい)。ある日忽然とこの村にやって来て、居着いている女性だ。薬に精通しており、この村にいない医者の代わりとなっている。そのため誰もが「憲英先生」と呼んでいる。
「仕事はいいのか」
「ええ、もう今日は終わりましたの。あ、今日の薬ですわ」
そう言って差し出されたのは高級な紙で包まれた粉薬。母の薬だ。劉備はそれを彼女の掌から取り、懐へ突っ込んだ。
「そういえば、黄巾党がまた官軍を破ったそうですわ。このままじゃ洛陽を制されるのも時間の問題ですわね」
「またか。……今の官軍は力を持たないからな。誰かが入らないと無駄だろうな」
「董卓という役人が向かったそうですが、それでも破られたと」
黄巾党――農民の集まりにより大規模一揆。それらはこの中国大陸の半分以上で決起し、官軍を悉く打ち破っている。この涿郡に来るのも時間の問題だろう。
「その黄巾党ですが、皇帝の一族――また、皇族の血を引く者を処刑するのではと噂が出ていますわ。そうなれば、玄徳様も……危ないですわね」
「黄巾党が、蒼天(漢王室)を殺せるのならな」
劉備は黄巾党が倒されると思っている。乱を鎮圧される。憲英は黄巾党が勝つと思っているのか、それともただ純粋な興味なのか、お気を付けくださいなと憂慮の表情を崩さず告げた。
「……で、玄徳様は母君に盗みの事は……言わないのですか?」
母のために盗みをしている。そんな事を言えば母は「そんな事をして欲しい訳ではない」と怒るだろう。否定するだろう。だから劉備は言わない。たとえ悪だと言われようと、劉備は母を医者に診て欲しいのだ。そのための金を今集めている。だが、己の母の事だけを考えている訳ではなく、しっかりと村人の事も考えている。村人は母にとっての友、彼らも裕福にならなければ母は満足しない。そのためならば劉備はどんな悪にでもなる。
「でも玄徳様、いずれ捕まりますわ。そうなれば……」
「大丈夫だ、甘家が官吏を買収している。まあ、俺はそのために奴らにも金を与えているんだけどな」
甘家とはこの楼桑村を管理している家である。豪農であり、地元で知らない人はいないくらいの家だ。周囲の村にも顔が利く。以前は劉家――劉備の家が管理していたが、劉備の父が病で亡くなり、甘家が後を継いだ。その甘家は官吏達と繋がっているため、劉備に金を求める代わりに、役人達から守ってくれている。金を集めれば、洛陽の医者を紹介してくれる。そのために劉備は盗みを行っている。
「で、どれほど集まったんですの?」
「……その金全部捧げて買官(金で官吏の地位を買う)すれば、皇帝に近い地位に就く事が出来るくらい、だな」
つまりは大金。恐らく、この村で一番金を持っている。だがそれは目標のための金だ。他の事に使う事は許されない。それに――、この金で母親が救われれば自由になれる。
「――これが、終われば、母上を診せる事が出来れば俺も晴れて自由だ。母上をもう悲しませずに済む」
劉備は立てている膝の上に肘を置き、手を組んで額を置いた。母親のために、悪の道を選んだ。劉備は甘家にとって金を集めて来る便利な駒だった。
――金を集めておいで、そうしたら母親を救ってあげよう。
そんな事を言われたのが、父親が死に、母親が病に罹って嘆いていた直後の事だった。その甘い言葉に劉備は拐かされた。金を集め甘家に収めれば洛陽の医者を手配してくれる――金が欲しい甘家の代わりに劉備は動く。
そうすれば劉備の願いは叶うのだ。
憲英はそんな劉備の手を握り、真剣な眼差しで訴えた。
「玄徳様、忠告致しますわ。あなた、そろそろ手を引いておかないと大変な事になりますわ。甘家がどう思っているかはわかりませんが、玄徳様を手放すような事は絶対にしません。何故なら、玄徳様は都合のいい駒。金を集めてきてくれる便利な駒なのです」
故に、甘家はこう考えます。
どうにかして劉玄徳に金を集めさせる方法はないか――と。
「わたくしが甘家なら、まずは玄徳様を信じさせ、金を奪いますわ。母親を人質にするのもいい。――玄徳様、甘家は甘い家ではありませんわ」
憲英の眼差しに劉備は恐れを感じた。彼女は真剣に、己を思ってくれているのだ。劉備は「わかっている」とだけ返答する。だが――、たとえどうであろうと、劉備は金を稼がなければならない。金を稼いで、洛陽の医者に会いに行くのだ。
「だが、俺は……それでも金を集めなきゃならねえ。……憲英、お前の言う事はわかるし、理解している。母上を守るために俺はたとえ自分が殺されようと金を稼ぐ」
「玄徳様……」
「それに、俺が大人しいうちは甘家も手を出さないだろうよ。約束は違えない、俺が逃げたら困るのならあいつらも約束を違えたりはしないはずだ」
そんな劉備を憲英は静かな眼で呆れを見せる。玄徳様はお人好しが過ぎますわと。そういうつもりは全くないが、彼女にはそう見えるらしい。仁君、聖人、大徳。そんな事を今まで言われたが、そんなものと劉備はかけ離れている。
「忠告は致しましたわ。何かあればこの憲英を頼ってくださいませ。玄徳様が笑える日をこの憲英、楽しみに待っております」
最後に笑ったのはいつだったか。もう思い出す事は出来ないが、きっと心から笑える日がくればいいと思う。その時は母親の病も治っているはずだ。
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