母は強し

「備、何を騒いでいるの」

 庭に響く母親の声。劉備は焦った。まずい――いや、この男の事を母親に言って、尽きだしてしまおうか。そう思い瞬きをした直後、男はその場から消えていた。劉備は理解が出来ず周囲を見回す。何処にも男はいない。夢だったのかと思うが、腕の痕は消えておらず、それが現実である事を教えてくれていた。

「備、何をしてんだい、そんな穴を掘って……――ってまさかそこに死体とか埋めてたら流石の母さんもあんたを官吏に突き出すからね」

 庭先に出て来た母親は呆れを見せた顔を漂わせていた。肩には薄い布が掛けられている。

「そんな事、しませんよ! 母さんの中の俺は殺人鬼ですか!」

「冗談だよ、いいからさっさと埋めて中に入りなさい。客人も来ている事だし」

「客人?」

 誰だろうか。劉備は首を傾げた。公孫瓚か親戚だろうか。ああ、そう言えば叔父から母が金を借りて学問を習わせてくれているのを劉備は思い出した。だがその学問もあまり身が入らなかった。何故なら、劉備は雄飛を夢見ている訳ではないからである。

「来ればわかるさ。今食事を提供しているところ」

「食事ってうちにそんな飯ないだろうに……」

 劉備は渋々不平を言いながら穴に木箱を入れては埋める。そして部屋で新しい服に着替えては居間へ向かった。そこに居たのは己の母と談笑する関羽と張飛だ。二人は案(食事を置く小さな机)の前に腰掛けている。劉備はすぐさま二人に掴みかかった。

「おい、何してんだ」

「お、落ち着けって兄者! 俺達はただ挨拶に来ただけだ!」

「挨拶? 俺の母上に取り入ろうってか。とんだ悪党だな。そんなに俺に斬られたかっ――」

 頭上に落ちる強烈な痛み。劉備はその場に沈んだ。母親からの拳骨である。抉られたような痛みに劉備は頭を押さえて蹲る。関羽と張飛はその光景に少し顔が引きつっていた。

「ごめんなさいね、うちの子馬鹿で! 喧嘩早いのよ、本当に」

 高らかな笑いでも漏れ出しそうな母親はそのままの状態で劉備の首に腕を巻き付けて、更に首を絞めた。そう、劉備が唯一逆らえない人物、それはこの病持ちの母親である。逆らえば拳骨、首締めからの一発で叩き潰される。過去何度も叩き潰された事があり、この家は母の天下となってしまった。もちろん、劉家の当主はまだ幼い劉備である。

「い、いえ、我らもいきなり尋ねたのが悪いもので……」

「あらあら、雲長殿そんなにかしこまらなくていいのよ! うちの子に話があったのでしょう? ごめんなさいね、些細なものしか提供出来なくて」

 うちの家貧乏でね、この子が当主なんだけど子供だから仕官も出来ないから親戚の援助で一応暮らしてはいるのだけれど、と母は劉備を解放して告げた。二人からしたら、劉備の家など下の下の下だろう。彼らの服装を見ればすぐにわかる。劉備とは違い、庶民が着るような服ではない。そこそこの武門が着るような漢服だ。

「大丈夫だぜ、兄者の母上! この飯凄く美味いし、何より料理は質じゃなくて愛情だ。それが入ってる飯は何でも美味え! だから俺達の事を気にしないでくれや」

「ふふ、ありがとう。そう言われると嬉しいわ。これからもうちの子と仲良くしてね。……うちの備はこんな性格だからいつもその辺の悪党としかつるまないし、気がついたら盗みを繰り返しているし……本当一度役人に突きつけようかと思ったくらいで」

 そんな事をしている人間くらいこの国じゃその辺に多数いる。劉備だけではない。こんな世界になったのは、宦官の専横が始まったからだろうか。劉備は身体を起こし母の隣に座り直す。

「母上、そろそろ」

「ん、ああ、そうだね。……じゃ、私はこれで失礼するわ。ごめんなさいね、ゆっくりしていって頂戴」

 母は劉備に支えられながら立ち、居間を出て行く。母親の足が遠くなった頃劉備は息を吐いて二人を睨み付けた。母は長い時間布団から出るのをよしとしない。体調が悪化するからだ。動くのも本来なら禁止したいが、活発な母親はそれを受け入れない。そのために、母親のためにも早く金を集めなくては。

「で、何の用だ。病弱な母上を動かしてまで俺の家に来るなんざよっぽどの理由があるんだろうな?」

「もちろんですぞ、兄上。……兄上、我らは兄上に言われた通り、村人に認められるために行動して来ました。その成果は明日見られるかと。そこで、お願いがあります。我らも兄上の母君を助けるために協力させて欲しいのです」

「協力?」

 劉備は訝しげに表情を歪める。そんな事求めていない――と言葉を発してから劉備は口を閉じ、唇に指を三本添えるように乗せて考えた。

 この二人を使えば少しは楽になる。そしてやりたかった事も可能だ。劉備は二人の熱意を耳に入れつつ右から左へ受け流しながら、深く思案する。劉備は学問を受けつつ盗みを繰り返している。その中で趣味やらにも手を出している。一番やりたい事は、洛陽の医者を見つける事だ。洛陽には華佗という名医が居ると公孫瓚から聞いた事がある。甘家が医者を探す手間を省き、己で探せば金も盗まれる事はない。先ほど会った男が言った事を劉備は少しだけ気がかりだった。

「……俺は医者を探してる。母上を治す医者だ。洛陽には名医と呼ばれる華佗先生が居るという。その華佗先生を見つけて来い」

「さすれば兄者は俺達の事を認めてくれる訳だな! よっしゃそうと決まれば早速洛陽に向かうぜ! いくぞ、雲長の兄貴!」

 張飛はすぐに立ち上がり部屋から出て行く。関羽も立ち上がり、部屋を出ようとしたがすぐに足を止め振り返った。

「兄者、これは我の勘ですが……母君は病ではないかと思われまする。病とは別の何かが母君を蝕んでいると思います」

「どういう事だ」

「まだわかりませぬ。それも華佗先生に診せればわかる事でしょう」

 では、兄者、お気を付けください。関羽は今度こそ部屋から出て行く。残された劉備は一抹の不安に駆られた。関羽の告げた事で、先ほど会った男が言った事を思いだしたからだ。そんな訳がない。そんなはずがない、甘家は自分を助けてくれる――母を助けてくれる。そう信じて、劉備は動いてきたのだから。

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