策に溺れる
楼桑村は四方を森に囲まれた村である。森の木を切り拓き出来ているような村が楼桑村だ。森には狼やらの猛獣が住んでおり、劉備のような貧農の家は森の近くに家を構える。故に襲われる危険も高い訳だが、殺されるという事はない。何故なら昔から襲われるという経験を体験して来ているため、狼を余裕で殺せるからだ。劉備の強さもそういう昔からの慣れが含まれているのだろう。もちろんそれだけではないのを法正は知っているが。
そんな猛獣溢れる森には役人が数名。服装から見るに文官と武官だ。朝廷の使いだろう。何かと待ち合わせでもしているのか先ほどから動かない。だが狼には警戒しているようだ。何かを待っている――それは一目瞭然、恐らく彼女だろう。
「……合流されたらこちらも困るのでね」
この辺りで処分しておこうか。
そう決めると法正は腰掛けている木の枝を軽く叩いた。すればまるで示し合わせたかのように狼の一家、それに虎までもが役人達を取り囲む。家に土足で踏み入られて、怒ったのだろう。
「なっ、何処からッ!」
「怯むな! ただの猛獣だ!」
狼と虎は連携するかのように役人達へ襲い掛かる。ただの猛獣――確かにただの猛獣だが家を荒らされたと思い込んでいる猛獣である。思いは他の猛獣より強い。
そして数分と経たずに役人達は食い殺されてしまった。
楼桑村の村人が猛獣に食い殺されない理由は一つ。彼らもまた、猛獣達と共存を図っているからである。お互いに干渉せず、干渉されず。そうして平和を保っていた。
「だがお前らは違う。平穏を乱した人間に、幸福はないぜ」
そして数分後――血の気滾る森には一人の女性が訪れていた。艶やかな黒髪を持つ女性、甘梅である。董卓の妻となる彼女がこの森を訪れている。護衛もつけずに。彼女は周囲を見回し何かを探しているようだった。だが彼女の答えはもう此処に存在しないだろう。何故なら法正が全て処分してしまったからである。彼女は不安げに表情を歪めていく。
「お探しの人物はいないぞ、甘梅」
法正は森に声を響かせる。甘梅は足を止めて姿を現さない法正を探すように、黒い眼を忙しなく動かした。
「姿を現しなさい。何者なの」
「お前のお探しのお役人は此処にいない。俺がお帰り願ったからな」
甘梅の顔が強張った。やはりか。法正は巨大な木の枝に腰掛けつつ甘梅を見下ろす。董卓の名でも使ってこの村に役人を引き入れようとしたのだろう。そして森を待ち合わせにし、役人達は見も知らぬこの森で殺された――。因果応報とでも言っておこうか。
「何故……ッ」
「お前は劉備殿達がやろうとしている事を知っている。董卓の名を使い、役人をこの森に呼び寄せ劉備殿でも捕まえようとしたのだろうが……遅かったな。劉備殿はこの村にいない」
劉備は今洛陽への道を進んでいる。しばらくは戻って来ない。作戦の変更なども伝えてはいないが、劉備が気にするような事ではない。劉備にはただそれだけを遂行して貰う。他の些事は全て打ち払おう。そんな事、王者たる彼が気にする事はない。
「お前は劉備殿が甘家を出てから劉備殿を追跡した。そして劉備殿達が董卓失脚のための策を練っているのを知った。董卓が失脚すれば甘家も終わる。だから董卓に失脚されては困る。そのため、お前は劉備殿を役人に突き出そうとした」
「っ、そうよ……甘家が無くなっては困るのよ。私には大望がある。たとえ、嫌な男の妻になろうともやりたい事がある。そのためなら這いつくばってでも、辛酸を舐めてでも、成し遂げてみせる」
愚かな女だ。こうも周りが見えていないとは。法正は一息ついては右膝を立てて、その上に右腕を置いた。
「――董卓は今のところ劉備殿に価値を見出している。劉備殿は董卓にとって金のなる木だ。金が作れなければ身売りでもさせればいいと思っている。そうだろう」
この時代、子供の奴隷はよく売れる。愛玩とするもよし、労働力とするもよし、また性処理の道具として使うもよし。劉備のような十代の子供は労働力や性処理に使われる事が主である。もちろん、そんな事法正がさせる訳がないが。
「なら、劉備殿を役人に突き出す行為は董卓の邪魔をするだけだと何故気付くはずだ。お前も馬鹿じゃない。――お前、劉備殿を個人的に消したいだけだろう」
甘梅は唇を噛み締める。何も言わない。やはりその通りか。法正は目を伏せた後、瞳に甘梅の後ろ姿を映し出す。
「……玄徳が、劉備が邪魔なのよ。この村で劉家は誰からも尊敬されている。崇められているわ。劉備の母も、劉備も。だから捕まえてしまおうと思った。殺すつもりはないわ」
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