深い谷間の巫女

「とにかく、本日は大事な白夜の一日を使って、俺をノルウェー王として承認してくれて感謝する。諸君の忠誠に対しては、良き統治で報いることを約束しよう。しかし、もし仮に俺に反逆する者や、いつまでもキリスト教に改宗しない者がいたならば、死を与えると覚えておくことだ」

 白夜といっても、真夏でも完全な白夜にはならない。ここオップランでは北のヨートゥンヘイム山地に太陽が沈む。今は秋なので日没も早くなった。

 目的を果たして、海賊王オーラヴは兜を被って去った。他の海賊と同じで、目の下まで覆っていて目の部分だけ楕円の穴が二つある兜だったが、オーラヴ王のものだけは牛のような二本の角が付いていた。

 民会は解散となった。

 足取り重くソールレイヴは自分の住む丘の上の屋敷に向かった。滑り止めの突起が無い夏用の靴が、まるで地面に貼り付くようで、一歩一歩が苦しかった。

「キリスト教が南の方では広まっているという話は聞いていた。でもその流れがこんな北の方にまで来るとは」

 歩きながら呟く。岩に刻まれたルーン文字でさえ、時の中で風化して薄くなり読み取り難くなっていく。それと同様で、古きアースの神々もまた、信仰され続けるかどうかの崖っぷちに追い詰められている。

「おかえり。新しい王様はどうだった?」

 俯いて足元だけを見ながら歩いていたソールレイヴは顔を上げた。道を少し外れた場所、急な丘の北斜面の途中に、人が座れる岩場がある。そこに同い年の幼馴染みが座って夕陽を眺めていた。

「やあ、ゲルド。新しいオーラヴ王は、キリスト教徒だ。僕たちにも改宗を迫ってくるつもりみたいだ」

 ソールレイヴはゲルドに経緯を説明した。

「改宗なんて、もってのほかだわ。母から娘へ、娘から孫娘へ。アースの神々の教えを代々奉じる巫女である私が改宗なんて、そうするくらいなら殉教して死を選ぶわ」

 腕組みして唇を尖らせて、ゲルドは青い瞳に憤りの炎を燃やした。白に近い銀髪が心の揺らぎを反映したかのように靡いた。

 ゲルドは胸元の大きく開いた装束を着ていた。大きな三重の首飾りや琥珀の額冠といった装飾品こそ今は装着していないが、巫女の衣装である。腕組みしているため、大きな二つのふくらみが寄せられ、フィヨルドのように深い谷間が形造られていた。

 ついそこに視線が向いたソールレイヴは、ゲルドの胸に小さな銀色の首飾りが懸かっているのを発見した。菫青石や氷州石などをあしらった儀式用の大きなものとは別物だ。

「なあ、その銀の首飾り、いつから着けていたんだい?」

「つい最近よ。形が素敵で気に入ったから行商人から買ったのよ。今まで気付かなかった?」

 艶やかな唇に少しの笑みを浮かべ、ゲルドは得意そうな顔をした。

「それは十字架っていって、キリスト教を象徴する飾りなんだぞ。アースの神の巫女が、よりによってそれを身に着けてどうするんだ」

「えっそうなの? 私てっきり短刀の形を象ったものだとばかり思っていたわ。さすが若き賢者ソールレイヴね。何でも知っているのね」

「十字架だと知らなかったのか。じゃあ捨ててしまいなよ」

 ゲルドはあからさまに嫌そうな表情をした。

「せっかく買ったのに。あくまで、形が気に入っているだけで、キリスト教に改宗したわけじゃないんだから、捨てるのは勿体ないわ。私の心は常にアースの神々と共にあるんだから。今後は儀式や語りの時には聴衆に見えないように気を付ければいいのよ」

「ちぇっ、勝手にしなよ。アテにならない巫女だなあ」

「いいじゃない。女にとっての装飾品は、男にとってのベルトと短刀のようなもので、自分の好きな良いものを身に着けたいのよ」

「はいはい」

 不機嫌に吐き捨てて、ソールレイヴは丘をのぼって屋敷に向かった。この村では一番大きな屋敷だ。

 巫女のゲルドでさえ、こんなありさまだ。古きアースの神々の教えは、未来にも無事に残っているのだろうか。オーラヴ王が改宗を推進することで、キリスト教に押し切られてしまうのではないかという不安を拭い去ることができない。

 夜がやってきた。北極星がひときわ輝く。 

 ソールレイヴのハシバミ色の目に映るのは、夜空よりも暗い未来だった。

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