賢者の勉強

 ゲルドは、木製の机に顔を突っ伏せた。白に近い銀髪が拡がる。

「もう洗濯棒も持てないくらいに疲れました」

「おいおい何を言っているんだ。つい先日から勉強を始めたばかりだろう。弱音を口にするには早すぎる」

 机を挟んで向かい側に座っているソールレイヴが疲れた表情で言う。二人とも憔悴していた。

「だって、言うなれば敵の宗教なんだから。それを勉強するって言っても、泉の水みたいにやる気が湧いてくるはずがないでしょう」

 机に伏せたまま、ゲルドは顔を上げずに言う。ソールレイヴは言い返すことができず、沈黙を保った。

「それに、キリスト教の勉強をして、それで、どうするっていうの? 三位一体がどうこうで、ネストリウス派とかいうのは異端として追放された、というのを知識として知っても、それでどうやって宣教師と論じて闘えっていうのよ。キリスト教の傾向だけ勉強して、具体的な対策が全然勉強できていないでしょう」

 俯いたままのゲルドとは逆に、ソールレイヴは椅子に腰掛けたまま、首を反らせて天を仰いだ。梁がやや埃じみた、神殿の天井が見える。

「あーそれは、仕方ない部分もあるかな。僕たちはまだ、キリスト教のほんの初歩的な部分しか勉強できていないんだ。あくまでも今は知識を蓄える段階なんだ。予備知識が無ければ、ただ応用的に対策だけ練ったって、上っ面をなぞるだけで中身の無いものになってしまうからね」

「賢者さまが早口でまくし立てることは、私には複雑すぎて難しいわ。噂に聞く、海の難所のスヴォルド海域みたいなものね。潮の流れは急速で複雑で、船は翻弄されるばかり、だって」

「もういいからゲルド、早く顔を上げなよ。そしてちゃんと僕の説明を聞いてよ」

「顔を上げる気力すら枯渇したわ。構わないからそのまま喋っていいわ。ちゃんと聞いているから」

 あまりにも怠惰な巫女の姿に、賢者ソールレイヴは溜息をつくばかりだった。ここは、神殿の中でも小さな部屋だ。二人くらいの少人数で打ち合わせなどをする時に使う。神殿の礼拝堂には、今も一般の信者がまばらに訪れていて、商売繁盛や武運長久などを願っている。そういった一般信者にはとても見せられない様子の巫女ゲルドではあるが、ソールレイヴに対してはそれだけ心を許しているということなのだろう。

「巫女がこんなので、また宣教師が来た時にどうにかできるのかな。不安しか無い」

 森の中で泉の水を飲むために跪いていた巨人が立ち上がるように、ゲルドは腰を伸ばして顔を上げた。真っ直ぐ、正面のソールレイヴに視線を射かける。

「私の、というよりも私たちの勉強が進まない一番の理由は、教える役である先生の知識がいまひとつ頼りないからだ、ってこと、きちんと認識している?」

「そ、それは申し訳ないと思っているけどさ。でも、仕方ないじゃないか。僕だってアースの神々を信じている。キリスト教に関する知識が少なくて当然だろう?」

 言い合いは不毛だった。緑の島といいつつ雪と氷に包まれている緑の島くらい不毛だ。

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