アース信仰の黄昏

「おや、覚えておられませんかな? 私は宣教師としてキリスト教の布教に努めております。オップランで二度、お会いしたではありませんか」

「あっ! 最初に会った時は痩せていて、二回目に会った時には太っていた、あの宣教師さん、ですか?」

 今は極端に痩せても太ってもおらず、普通だった。巫女の予言があったとはいえまさか三度目の邂逅があるとは思っていなかった。だからソールレイヴが一見しただけでは誰だか分からなかったのだ。

「なんだ。ソールレイヴの知り合いが氷の島に居たのか?」

「知り合いという程のものでもありませんが、以前に賢者ソールレイヴ殿とはちょっとした因縁がありましてね。というかあなたは詩人ハルフレズ殿ではありませんか。オーラヴ王のお側に仕えておられましたよね?」

「ああ、その通りだ。オーラヴ王が戦死を遂げてしまったので、気力を失くして故郷に帰って来たのだ。この俺を知っているということは、お前はオーラヴ王に近しかった宣教師の一人だな? 氷の島に何をしに来ているんだ?」

 宣教師はどんよりと曇った東の空を見上げて楽しげに笑った。

「私はキリスト教の宣教師ですよ? 何をしに氷の島に来たかなんて、当たり前のことじゃないですか」

 鱈か鰊かあるいは鮫か、水揚げした魚を入れた箱を運ぶ数名の漁師たちが、立ち話をする三人の脇をすり抜けて行く。その漁師たちのうちの二人が、十字架の首飾りを着けているのをソールレイヴは見逃さなかった。

「ここ、氷の島にも、キリスト教が入り込んで来ているというのですか……」

「今更何を言っているのですか。もうずっと以前から、ノルウェーとの人の行き来も盛んですから、当然ながらノルウェーからキリスト教の人が多数、既に入って来ていました。とは言っても、我が師サングブランドル司祭が三年ほど前に来て二年ほど布教活動をしておられた時は、まだまだ異教の方が優勢でかなり苦労されたようですが。でも今ではもうかなりキリスト教は浸透しています。今年の夏の全島会議で、意見が割れて紛糾した上に火山が噴火するという未曾有の事態に見舞われる中で、全島がキリスト教を取り入れて改宗するという方向性で決定したようですから、私のような後から来たキリスト教宣教師も、仕事がやりやすくなったというものです」

 ソールレイヴが周囲を見渡すと、一角獣の角のように尖った三角屋根に大きな十字架を取り付けた建物があった。少し大きめの民家を教会に改造したもの、という感じではない。最初から教会として設計された建物だろう。

「そんな……こんな北の果ての氷の島でも、アースの神々の教えは駆逐されようとしているのか……」

 ギンヌンガガプの深淵の如き昏き絶望が、船酔いから醒めたばかりのソールレイヴを苛む。安住の地は、この北洋のどこにも存在しないのだ。

 ソールレイヴの両目から涙が零れた。いや、眼帯を着けた右目からはもう涙も流れないのだが、悲しみと虚しさが黒き血の泉となって、左目の本物の涙以上に滝となって落ちているかのようだ。

 現実に対して、潰れた右目で見てしまっていたのだ。先見の左目を背けて、心の中ではうっすらと期待していたのだ。神話の最後に歌われているような約束の大地が海の真ん中に在るのだと信じていた。

「賢者殿は、まだ改宗しておられなかったのですな。全島会議ではキリスト教への改宗が決定されたとはいえ、古き異教を密かに信仰することは禁止されなかったようなので、死ぬまで日陰で生きる覚悟があるというのならば、古き神々に殉じるのも悪くないかもしれませんな」

「まさか。いかにキリスト教が勢いを拡大しているからといって、もう既に氷の島全部がキリスト教に染まってしまったなど、到底考えられません」

「氷の島では、今はまだキリスト教徒と異教徒は半々くらいかもしれませんが、これから先は急速にキリスト教徒に改宗する人が増えるでしょう。氷の島より更に北に、緑の島という大きな島があるのですが、そこにだって十五年ほど前からもう既に教会が建てられているのです。これが、キリスト教の力です。そういう現実の潮流を直視することが、本当の賢さだと私は思いますよ」

 嫌味でも高慢でもなく、優しい口調で言って、宣教師は去って行った。

 小さくだが、地が揺れた。地震だ。周囲を歩いている人は誰も気にしないような小さな振動でしかなかったが、ソールレイヴはよろめいて倒れそうになり、ハルフレズに支えられた。

「おい、まだ船酔いが治ってないのか?」

「いえ。あまりにも絶望が大きすぎるだけです……ごめん、ゲルド。僕たちは、氷の島にも居場所が無いみたいだ」

 ソールレイヴは両手で顔を覆って、静かに泣いた。賢者の背後に、頭巾を目深に被った女がそっと立つ。女は俯いたままなので顔の表情は窺えない。ただ銀の十字架の首飾りが胸元で空しく揺れただけだった。

 また小さな地震が起きた。ソールレイヴの泣き声に呼応しているかのようであった。東の空からは灰色の雲が留まることなく湧き上がっていた。それが、この夏の全島会議のまさに最中に噴火したという火山の煙だった。

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