夜伽

 膝立ちの人物は振り返りながら立ち上がった。長身の男だが、美男子であるかどうかは、暗闇の中であるため顔の様子ははっきりとしない。

「せっかく来てもらったが、夜伽など申しつけておらんぞ」

「私はオップラン地方の巫女でゲルドと申します。エイリーク侯にお願いに来ました。オーラヴ王時代の強硬なキリスト教推進政策を中止し、むしろアースの教えを保護、推奨してほしいのです」

「ほう。それは、遠路遥々ご足労だったな。我が父ハーコンのことは、息子としては勿論尊敬しているが、客観的には女好きという欠点があったのは否めない事実だ。だから私は、妻以外の女を自らの欲望のためだけに抱くようなことは控えたいのだ。だから夜伽はいらない」

 どうやらエイリーク侯は勘違いしているらしい。心の中に苛立ちが漣となって震えるものの、ゲルドは辛抱強くエイリーク侯に語りかける。

「いえ、私は夜伽に来たのではありません。アースの教えの保護と推奨をしていただきたいと」

「夜伽ではないだと? だったら、陳情のために他に何か手土産でも持ってきたのか?」

 ゲルドは言葉に詰まった。深く考えずに慌てて出発した報いだ。エイリーク侯もアースの信者であろうから、アース優遇政策には喜んで賛成してくれるものと簡単に考えていたのだ。

 船の舳先に打ち寄せる波の音が寒々と響く。それはまるで、目の前にあった立派な砂の城が崩れて行く音のようでもあった。

「……ふん。新たなる海賊王に対してものを頼む態度ではないな。お帰りいただこうか。まあ心配するな。仇敵オーラヴと同じような政策などとりたくないからな。反発する巫女や巫術師は一人残らず処刑、などという強引な手法は行わないつもりだ」

 冷たい口調だったが、エイリーク侯の言葉の内容は、まだ希望の光を見出すこともできるものだった。

「で、でしたら、アースの教えを優遇していただいても」

「そうですそうです。僕たちアースの信者は、オーラヴ王の時代には苦い熊の肝を嘗めるような境遇でした。別に、キリスト教を迫害してほしいとか、キリスト教宣教師を皆殺しにしてほしいとかは言いません。ただ、アースを優遇していただければ」

「もう一人の方は男だったのか。お前たち、私が毎晩この場所で一人で何をしているのか知っていてここに来たのではないのか?」

 言ってエイリーク侯は、長蛇号の大きく反った高い船首を指さした。闇の深い夜である。エイリーク侯が、来訪者のもう一人が男であると分からなかったように、船首に何があるのか、ゲルドとソールレイヴには分からなかった。

「アースが隆盛だった時代には、大型海賊船の先端には戦神トールの像を船首像として載せていた。スヴォルドの戦いの時も、私が乗っていた旗艦には、トール像を載せていた。しかし私は戦いの前に、オーラヴを打倒したらキリスト教に改宗すると誓っていた。アースはもう時代遅れだからな。だからオーラヴが海に沈んだあと、自分の船のトール像を十字架に取り替えた。そしてこの長蛇号は、元々キリスト教徒だったオーラヴの船だったのだからな」

 暗闇の中でおぼろげに輪郭を確認できたのは、エイリーク侯の言葉のおかげだった。長蛇号は完成した当初から船首に十字架を載せていたのだ。

「私は、古き異教を捨ててキリスト教に帰依する決意の証として、毎夜この時間に一人で、十字架に祈りを捧げているのだ」

「う、うそ。エイリーク侯がキリスト教に改宗したなんて……」

 真実。それがゲルドを雷のように打ちのめした。よろめいて後ろに倒れそうになるのを咄嗟にソールレイヴが背後から支えた。床の木を叩くような硬い靴音がそらぞらしく聞こえた。

「さあ、私も、祈りの時間は終わりだから長蛇号から降りるぞ。明日からはまた別の所に移動して、その地方の秋の民会にて我が王権の承認を要求するつもりだ」

 民会は通常は春と秋の年二回行われる。エイリーク侯がオーラヴ王を打倒してノルウェーの覇者になったのは、偶然都合の良い時期だった。

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