処刑

「ノルンよ! これが俺の運命なのか?」

 体は縛られているが、口は自由に動くので、巫術師は自らの信じる運命の三女神、アースの神々へ救いを求めた。

 しかしキリスト教に押されて人々の心が離れつつあるアースの神々の奇跡を待っていては、潮が満ちてしまう。それまではまだ時間はあるが、縄を解いて脱出できなければ、いずれ潮位が口より上になり、鼻の穴より上になり、息ができなくなる。溺れ死ぬ。

 巫術師は暴れた。暴れようとした。だが力を籠めれば籠めるほど、縄は緩むどころかかえって強く体に食い込んできた。無駄に力を費やしたので疲れてしまった。口を全開にして大きく息をつく。今はまだ、海水が入り込むことなく息ができる。今はまだ。

 荒く息をするだけで、縄が身に食い込んで痛い。少し休んで、対策を考えてみよう。

 しかしその思いは、潮の干満だけしか考えていないものであり、現在置かれている状況の厳しさを十分理解していない甘いものだった。巫術師はほどなく、それを思い知らされることになった。

 潮が膝くらいまで満ちてきて、その冷たさに意識がはっきりしてきて、気が付いてみると、頭上が騒がしかった。鴉が集まって鳴いているらしい。首と視線を可能な限り上に向けた。鴉だけでなく鴎なども多数飛んでいるのは分かった。詩人ハルフレズの言葉の意味がようやく分かった。巫術師は死んだら、魚の餌だけでなく、鳥の餌ともなるのだ。

 鴉の鳴き声が近くなったような気がする。と思った次の瞬間には、頭の頂上に痛みを感じた。鴉の嘴で突かれたのだ。あるいは脚の爪で蹴られたのか。大声を出すと同時に必死に首を振る。すると、鳴き声が遠くなった。鴉たちは距離を置いたらしい。死んだら、という話どころではなかった。生きていながら鴉の餌にされてしまう。

 だが、この抵抗がそう長く続かないことは明らかだった。巫術師が首を動かし続けている限り、鴉の群れは接近してこないが、疲れて動きを止めたらすぐに舞い降りてきて鋭い嘴で脳天を啄む。潮位は既に腹にまで来ている。海水の冷たさは、皮膚から確実に体温と体力と気力を奪っている。声を出すのも疲れてきた。

 腹が冷えて、尿意をもよおした。着衣のままなので漏らすわけにもいかない。我慢しなければ。

 だが、よくよく考えると、この状況で我慢する意味も無い。なので、そのまま水中で放尿した。すると尿の暖かさが上に伝って、腹が少し温まった。だが、暖かい尿はすぐに拡散して、また冷たい海水に戻ってしまった。一度に全部出してしまわずに、少しずつ小出しにすれば良かった、と巫術師は思ったが、そんな場合ではなかった。危機は上から下から同時に迫っていた。

 どれほど時間が経ったのだろう。声だけではあまり鴉が驚かなくなってしまっていた。鴉が降りてきては首を振って追い払い、を幾度も繰り返しているうちに、海水は口の辺りまで迫っていた。もう完全に口を閉じていないと海水が入り込んでしまう。鼻だけで必死に息をする。こうなっては声を出そうにも出せない。

 体は完全に冷えて、意識が遠くなりつつある。鴉の嘴が頭髪を引っ張っているのが分かったが抵抗する気力も体力も出ない。しっかり閉じた唇を内側から舌で舐めると、海水のしょっぱさが妙に明瞭だった。閉じた目蓋に痛みを感じた。どういう体勢からなのか、鴉は目玉を啄もうとしているらしい。生きたまま目玉を抉られ光を失うのが先か、溺れて死ぬのが先か。

 巫術師が特に信奉するのはノルンと呼ばれる三人の運命の女神たちだった。だから危機に瀕してノルンに祈った。だが、そもそも運命とは何か? それは、人がいかに努力しようとも結果を変えることができないこと。その最も端的な例は「死」である。古来より人は不死を求めてきた。だが残念ながら、死という定められた運命から逃れた者は誰一人存在しない。運命の女神というのは、実質的に死を司る存在なのだ。

 哀れな獲物の巫術師が完全に動かなくなったと判断した鴉たちが、我先にと巫術師の頭の上に降り立った。順番を争うようにして、巫術師の両目玉を食らった。やがて潮が満ちれば、巫術師の溺死体は完全に水没してしまう。また、夜になってしまい、辺りは闇につつまれてしまう。そうなる前に、鴉たちは一時退散する。だが、また潮位が低くなれば、そこにごちそうがあることが賢い鴉たちには分かっている。

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