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水夫たちの寝ずの働きにより、夜間航行を無事に終えたキヤンテの王室船は、朝方人魚宮へと辿り着いた。賓客の来訪をというよりも、既に次の女王と決めてかかったセーナーヴィーの帰還を、タリクタムの人々は待ち焦がれていたようだった。
「キヤンテ国王ラウサガシュ陛下、ようこそお越しくださいました。そしてセーナーヴィー様、よく、お戻りに……!」
「うむ」
軽く右手を上げて、それに答えたラウサガシュの隣で、今日は喪に服し、真っ白い女物を纏ったセーナーヴィーは、その場の空気に流されることなく母国人を制した。
「私は、キヤンテ女王の立場で人魚宮へ伺ったまで。意想外に姉上が身罷り、皆が不安がるのもわからぬでもないが、タリクタムに国王陛下がおいでになり、キヤンテ王に離縁の意思がない以上、出戻る気はないので履き違えぬよう。
あなた、祖国の者たちが先走りを致しました。代わってお詫び申し上げます」
「いや。詫びられるほどのことじゃない。それよりも、アズカヤルはどうした? 兄弟の甘えがあるとはいえ、他国の元首を出迎えに来んとは、あれの自覚が足らんのが悪い。人魚宮の者たちが、セーナに頼みたくなる気持ちはよくわかる」
敬愛する王妹を持ち上げてもらったのは嬉しいが、下げられているのは国王である。答えかねて視線を泳がせるタリクタムの官人たちへ、ラウサガシュは続けた。
「あの弟のことだ、大方、シヤナーハに張り付いておるのだろう? 構わん、こちらから出向いてやる。二人のもとまで先導を願おうか」
「はい、直ちに」
汗をかきかき答えた大臣の指示で、宦官が一人、案内に立った。
この宮殿で生まれ育ったセーナーヴィーですら、めったに立ち入ることができぬ場所。ラウサガシュがこれまで通されたことのない、人魚宮の深奥へ。
*****
麻布に
白い衣服に火の神の喪章を付けたアズカヤルは、ひんやりとした石床の上で、四方に焚かれた魔除けの篝火に照らされながら、柩を置いた祭壇に寄り添いうずくまっていた。
「アズカヤル」
ラウサガシュが声を掛けると、アズカヤルはそこで初めて、近づいてきた者たちを意識したように眼差しを巡らせた。
少女じみた愛らしい顔に初々しく面紗を付けて、キヤンテから旅立った時の輝きは微塵もなく、大人びた中に年相応の幼さを残しつつ、鬼神のように面やつれした、若い王がそこにいた。
「兄上……」
アズカヤルは、ゆらりと身を起こし跪礼をした。そうしただけで今にも倒れそうに見える、憔悴した異母弟の腕をラウサガシュは引っ掴んで引き上げた。
「ずっとシヤナーハの傍にいたのか!?」
ラウサガシュの非難混じりの問いかけに、アズカヤルはさも不思議そうな顔をした。
「はい、それが……? 結婚して、二人になって、いつも一緒に過ごしてきたのですよ? 離れるなんて、寂しいじゃありませんか」
毒気を抜かれたラウサガシュの手から、自分の腕をやんわりと抜き取って、アズカヤルはシヤナーハの柩に頬を寄せた。生前のままの愛妻が、変わらずそこにいるかのように。
「アズカヤル、お前……」
そこで言葉につかえてしまったラウサガシュに代わって、控え目に進み出たセーナーヴィーが悔やみを述べた。
「この度は、ご愁傷様でございました、アズカヤル殿。姉に
凛とした挨拶に、アズカヤルははっと目を見開いてその場を譲った。セーナーヴィーを映したアズカヤルの瞳には、シヤナーハの面影を追い求めるような切なさがあった。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
互いに向かって跪礼を終えた後、祭壇へ歩を進めるにあたってセーナーヴィーは、
「あなたも」
と、棒立ちになっているラウサガシュをつついた。
シヤナーハの柩の前に並んだキヤンテの国王夫妻は、香炉の中に一つまみずつ白檀の刻み香をくべた。それから二人揃って膝をつき、軽く下げた鼻先で両手を合わせた。
――シヤナーハ、お前は、馬鹿だ。
浮かんだ弔辞はその一言に尽き、ざらつく心のままにラウサガシュは、早々に拝むのをやめてしまったが、ここに至っても涙壺を枯渇させたままのセーナーヴィーは、ぴんとした姿勢を崩すことなく、長らく目を閉じて哀悼していた。
*****
「ご多忙の中、ご足労いただき、ありがとうございます」
三日後の国葬に先立って、取るものも取り敢えずタリクタムに駆け付け、死者の冥福を祈ってくれた兄夫婦に向けて、アズカヤルは改めて謝辞を述べた。
礼を終えたアズカヤルが、じっと自分の目のようで、目ではないところを見て来るので、セーナーヴィーは端的に問うた。
「何か?」
「あ、いえ、すみません、耳の形がナーハとそっくりだなって」
「耳……、ですか? そうですか? 姉とは似ていない似ていないと言われたことは多々あれど、そっくりだと言われたのは初めてです。ラウサ、あなたもそう思われますか?」
今日のセーナーヴィーは、弔問とあってすっきりとした纏め髪をしていた。おかげで左右の耳は全て出ているが、比較対象は柩の中である。
「知らん。シヤナーハの耳なんぞ、二つ付いていたことしか記憶にない。アズカヤル、お前よく気付いたな」
「はい、ナーハの、すごく可愛いところでしたから」
素直にそう答えてしまってから、少々ばつが悪そうに、アズカヤルは視線を外した。そういうことかとラウサガシュは苦笑いした。
「はあ、可愛い……、ですか……。特に大きいわけではないですし、尖っているわけでもないですし、特別な形状はしていないと思うのですけれど。あなた、可愛いんでしょうか? これ?」
ラウサガシュを見上げながらセーナーヴィーは、さらによく見せようとして思い付いたのか、両手で両耳を引っ張ってみせた。
可愛いは可愛いが可愛い違いであり、的外れな疑問符を飛ばしているセーナーヴィーに、ラウサガシュは正解はそのうちに、閨で明かしてやろうと心に決めた。
「そうしているセーナは可愛いが、こいつ、シヤナーハが化けて出て来て怒りそうな暴露をしただけだから、もう追求してやるな。それよりもお前たち、初対面ではなかったか?」
「言われてみれば……」
セーナーヴィーとアズカヤルは、互いに顔を見合わせた。
「本当ですね。婚礼の日が同じでしたので、入れ違いでセーナーヴィー様とは初めましてになりますね。
「どちらでも構いません、二重の意味で私たちは、義理の兄弟姉妹であるのですから。実の兄君であるラウサ同様に、気兼ねなく頼ってくださって結構です」
「気兼ねなく、で、いいんですか?」
年下のアズカヤルは、迷うことなく立ち位置義弟の方を選んだらしい。甘え上手に念を押した。
それはまあ妥当なことであり、共に支えてやらねばという気持ちもあって、ラウサガシュも口を挟まなかった。が――、
「ええ、何か私で、お役に立てることがございますなら」
「それでは、僕らがいなくなった後のタリクタムを、どうぞよろしくお願いします」
ずっしり重い頼み事に泡を食った。
「お前いきなり、気兼ねがないにもほどがあるだろう!」
思わず叫んだラウサガシュとは対照的に、セーナーヴィーは眉一つ動かすことなく、アズヤカルの要求を突っ撥ねた。
「それとこれとは話が別です、アズカヤル殿。何ゆえそんなあっさりと、タリクタムの王位を捨て去ろうとなさるのです? あなたに為政というものをお教えしたのが姉上ならば、王たる者の責務もまた、口を酸っぱくして説いていたはずです」
「だからです、セーナーヴィー様。王は常に自分の行いに、責任を持たねばならないと、それはナーハが教えてくれました。
僕の虎が、ナーハを、殺しました。お腹にいた、僕らの子も一緒に……。僕が育てた、僕の虎だったのに……、僕はナーハのすぐ近くにいたのに、救えなくて……。僕が虎を飼ってさえいなければ、きっとナーハは、今も生き生きとした綺麗なナーハのままでいて、むざむざと死んでしまうことなんてなかった!!
僕がこのまま、おめおめとタリクタム王でいることに、タリクタムの民が納得をするでしょうか? 僕が民ならそんなこと、絶対に許せない……! ですからあなたに、タリクタムの未来をどうかお任せしたいのです。あなたはナーハと共に学び、ナーハと志を同じくなさってきた、腹心の妹君だと伺っていますので」
アズカヤルの口から語られたのは、一応の筋が通った主張ではあった。
けれどもセーナーヴィーは揺るがなかった。それは純粋さのあまりに凝り固まった、正してやらねばならない考えであったから。
「虎の責任は飼い主の責任、というわけですか? アズカヤル殿、あなたがご自身を責められるお気持ちはわからぬでもありません。しかし見方を変えれば、姉の死は姉の自業自得。姉の悪いからかい癖が災いを呼んだのです。
私は……、少なくとも、シヤナーハの妹である私は、あなたに全ての責を被っていただきたいとは思いません。甘いことばかりではなく苦いことも、きちんと夫婦で分かち合ってください」
夫婦で――と諭された瞬間に、くしゃりとアズカヤルの顔が歪んだ。みるみるうちに涙を溢れさせたかと思うと、セーナーヴィーに縋り付いてきた。
「ちょっ、おま……!」
文句を付けかけるラウサガシュを尻目に、アズカヤルはがむしゃらにセーナーヴィーにしがみ付き、堰を切ったようにその胸で詫びた。
「ごめんなさい、ナーハを、守れなくてごめんなさい。こんな早くに、あなたの姉上を、死なせてしまってごめんなさい……!」
「いいえ。短い間でしたが、アズカヤル殿と夫婦でいられて姉は幸福でしたでしょう。姉のためにできる限りのことを……、今際の際まで手を尽くしてくだされたのでしょう?」
自分よりも背が低いアズカヤルを、セーナーヴィーは優しく抱き留め慰めてやっている。アズカヤルはまだ、十四歳、見た目は可憐な少年だ。
しかしその実態は、兄である自分に先んじて、人の子の親になろうとしていた成人男子なのである。アズカヤルの心の傷は深く、大目に見てやらねばと思いはするのだが、心中穏やかでいられないラウサガシュであった。
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