4-2

「何、だと……?」

 シヤナーハ、あのシヤナーハ、タリクタムの人喰い人魚が……、死んだ?


 驚きが過ぎてラウサガシュには悼む気持ちが湧いてこない。シヤナーハといえば、つい先ほど、アズカヤルの子を孕んだ喜びを筆が乗るまま書き綴った、おのろけ満載の手紙を読まされたばかりだというのに。

 それは肉親であり、より衝撃が大きかったと思われる、セーナーヴィーも同様であるらしかった。汗ばむラウサガシュの手の中で、虚脱したセーナーヴィーの指先は、対照的に冷たく凍えてゆく。


「死因は何だ? 病気か? 事故か? 流産か? まさかとは思うが暗殺か!?」

 矢継ぎ早に質すラウサガシュに、使者は一瞬、恨むような目つきをした。


「不幸な事故であったと、申し上げねばなりません。アズカヤル陛下がお飼いの虎が、シヤナーハ陛下を襲いました。シヤナーハ陛下は玉体を深く引き裂かれ、そのままっ……!」


 使者からの回答にラウサガシュは絶句した。シヤナーハを絶命させたのがアズカヤルの虎ならば、弟が虎を飼い、それをタリクタムへ連れてゆくことを許した自分が、その遠因を作ってしまったのだと言えなくもない。

 前触れもなく、若い女王を奪われたタリクタム人に、やるせない感情を突きつけられるのも道理であった。


「アズカヤル殿の虎が、何故、姉上を……? 虎は姉上にもよく懐いて……、なりが大きいだけで猫と変わらん、実にいものだ、と……、姉上はそう、手紙に書いて寄越していたのに……」


 切れ切れに尋ねるセーナーヴィーに、使者は順を追って説明を始めた。


「はい。女王国王両陛下が、庭園に虎を放して遊ばせながら、寛がれている最中の出来事でございました。そこに寺院から、高僧が訪ねてこられまして……。

 シヤナーハ陛下は、もう少し安定してからの方がという女官たちからの進言を受け、ご懐妊の公表を控えておいでだったのですが、つわりがあるので形式ばるのは辛いとおっしゃり、理由はお濁しになりながら、楽な姿でも構わぬならと、高僧を庭園へと招かれました。高僧は大僧正のご名代。本来ならば礼を尽くしてお迎えすべきお方ですが、初夜明けの寝室に乗り込んで、しどけない姿も目にしているのだから、まともな衣服を着ているだけ上等だろうと、からかうような真似もなさって。

 それを高僧お付きの小坊主が、師父を軽んじてのことだと決め込んで腹を立て、鬱屈した気持ちを晴らすのに、人目を盗んで虎に向けつぶてをうってしまったと。小石は虎の足元の地面を弾き、命中しなかったそうですが、野生であれば親離れ前の甘えん坊な子虎です。懐かれておられたシヤナーハ陛下であればこそ、興奮して跳ねてきた虎に飛びつかれ、惨事を招いてしまわれたようで」


「愚かな……!」

 使者の口から明かされた、馬鹿馬鹿しいあらましにラウサガシュは呻いた。

 らしいといえば非常に彼女らしい、シヤナーハの煽りもいただけないが、子虎とはいえ一歳の雄の図体では、雌の成獣とたいして変わらない。人の手で育てられていても虎は虎、そこに害意がなくとも、前足の重く鋭い一振りだけで、簡単に人間を殺傷できる危険な生き物であることを、密林のない港市国家の小坊主には想像できなかったのか。



「それでは、結果として姉上を殺めた下手人は、その小坊主ということになるのでは? いかな言い分があろうとも、王の愛玩動物を苛めようとしただけでも罪は罪。ましてや徳を積む修行中の小坊主が……。それだけのことが知れていて、あなたは何故事故と?」


「は。この事件を、飼い虎による不慮の事故となさったのはアズカヤル陛下です。折も折、高僧が申し述べにいらっしゃっていたのは、王家と寺院の関係を危ぶむご警告でした」


「警告?」


「はい。セーナーヴィー様はご存知でしょうが、先進気質のシヤナーハ陛下と、伝統重視の寺院とでは、もともと水と油でございました。以前はそれでも、騙し騙しやってこられましたが、タリクタム、キヤンテ間での二重結婚が決定して以降、アズカヤル陛下の国王戴冠を強要なさったかと思えば、続けて寡夫殉死の義務撤廃を強く訴えられ……。

 シヤナーハ陛下の粘り勝ちで、大僧正はどちらも容認なさいましたが、高僧曰く、陛下からの圧迫が心因となり、大僧正は寝込みがちでいらっしゃるというお話で。若い夫に溺れるあまり、女王陛下は寺院をないがしろにしていると、僧の間で不平不満がくすぶっていることを、両陛下ともご留意しておかれた方がよろしいと、歯に衣着せず陳じられておいででした。

 小坊主の愚行も、そういった背景がありました上での暴発でございましたようで、両陛下にはぶつけられぬ苛立ちを、代わりにお二方が可愛がっておられる虎に向けてしまったのだと」


「何ということ……」

 掠れた声でセーナーヴィーが呟いた。


 めでたしめでたしの先に待っていたものは、完全無欠の幸福ではなかった。溺れていると傍目に映るほど、アズカヤルを愛してしまったシヤナーハは、その想いの深さゆえに判断を狂わせて、改革を急ぎ過ぎてしまったということか。

 ラウサガシュの腕に額を当てるようにして、セーナーヴィーは顔を伏せた。泣いているのだろうかと思いながらラウサガシュは、慰む気持ちで、繋いだままの手を固く握った。



「アズカヤル陛下は、シヤナーハ陛下から虎を引き離すため真っ先に動かれました。なれど救出された時にはもう、シヤナーハ陛下は虫の息でいらっしゃって、辞世のお言葉もなく……。

 その場でシヤナーハ陛下を看取られた後、アズカヤル陛下は、互いのことに夢中で、周りが見えなくなっていた、自分たちにも省みるところはあったのだろう。小坊主に、王家と寺院を断絶させるような罪を問うてはならずと、処罰する者が必要ならば虎だけでいいとおおせられ、血まみれになるのも構わずに、シヤナーハ陛下のご遺骸をかき抱かれて慟哭を――。

 あの局面で、かようなご裁断を下されてしまっては、誰も口出しできませぬ」


「そうか、アズカヤル……、立派になったものだな……」


 こんな時ではあるがラウサガシュは、婿にやってからの異母弟の成長ぶりに感心した。あの、血を見るのにめっぽう弱く、自身の通過儀礼の虎狩りでも、虎の死体に槍先を当てるだけでふらふらしていたアズカヤルが!

 しかしこんなことで弟は、男を上げたかったわけではなかろうにと、憐れさがラウサガシュの胸を突いた。


「結局虎はどうした?」

「はい。その日のうちに、殺処分を。他者には任せたくないと、アズカヤル陛下が、喉をゴロゴロ鳴らして甘える虎を、長らく撫でて構われた後に、手ずから毒餌をお与えになられまして」

「そうか」


 虎は人間の善悪の外にある。シヤナーハの仇といえども、密林で拾い上げ親代わりに世話をして、幼獣の頃から育んできた命だ。

 憎いのか、悔しいのか、悲しいのか、可哀想なのか……、アズカヤルにはさぞかし複雑で、辛い処刑だったことだろう。



「無常なことだな。待望の子ができたと、夫婦で喜んでいたばかりであろうに。何をしてやれるか知れないが、弟を励ましに、今すぐにでもタリクタムへ行ってやりたい」

「ええ、私も……。姉上に最期の、お別れもしなければ……」


 ラウサガシュはアズカヤルの頼れる兄であり、セーナーヴィーはシヤナーハの腹心の妹であった。心情溢れる二人の言葉に、使者は深々とこうべを垂れた。


「ぜひともそうしていただければ。つきましては、キヤンテ国王ラウサガシュ陛下、並びに女王セーナーヴィー陛下に、シヤナーハ陛下の国葬にご臨席賜りたいのと、セーナーヴィー様には、葬儀後タリクタム女王としてご即位をいただきたく」


「即位……?」

 釈然としない使者の要請に、セーナーヴィーは俯けていた顔を上げた。気丈な彼女の、瑠璃色の瞳にはまだ、光るものがなかった。


「姉上が身罷られても、タリクタムには王が、アズカヤル殿がおいでになる。なのに何故、私に、タリクタムの王位が巡ってくる?」


「そのお答えは、タリクタムへお運びになられてから、アズカヤル陛下よりお伺いになってくださいませ。ただ私が急ぎキヤンテへ遣わされましたこと、そしてお願い申し上げましたことは、全てタリクタム国王アズカヤル陛下の思し召しに従うものでございます」

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