4-5

 セーナーヴィーの服を掴んで、えぐえぐと泣いていたアズカヤルだが、胸に溜めてきたものを涙と共に吐き出して、ようやく落ち着いてきたらしい。

 すみませんと消え入るようにセーナーヴィーに詫びてから、大きく洟を啜ったアズカヤルに、ラウサガシュは声を掛けることにした。


「アズカヤル、お前の言い分はよくわかった。あらかた俺の予想していた通りでもある。しかしアズカヤル、それでお前はどこへ行こうというのだ? セーナに王位を押し付けて、タリクタムからいなくなり、お前は一体どこへ逃げる? キヤンテに戻って僧にでもなる気か?」


 いい加減にセーナーヴィーから離れろ離れろという、ラウサガシュの念が伝わったのか、アズカヤルは濡れた目尻を拭いつつ、自立してからラウサガシュに正対した。


「逃げる? いいえ、逃げる気なんてありません。僕はナーハと同じところへゆくんです」

「はあ!?」

「あれ、兄上、ご存知ではなかったんですか? 王は男と決められてきたキヤンテと違って、女王が多く立ってきたタリクタムでは、女王の死に王配が殉ずることもあるのですよ」


 なんとか立ち直りを見せてくれそうかと、一縷の光明を掴んだ気がしたのも束の間のこと。まるで予期していなかったアズカヤルの決断に、ラウサガシュもセーナーヴィーも戦慄した。


「そこに驚いているんじゃない! いいか、アズカヤル! シヤナーハはお前のことで改革を推し進め、寺院との関係悪化を招いたのだと遣いから聞いた。お前は自責の念に駆られるあまり、自分を罰したくなっているのかもしれないが、実のところシヤナーハは、寺院との確執に殺されたようなものだろう!

 それなのに、お前は何故、シヤナーハの尽力を無に帰す真似をしようとする!? お前を想い、自分の死後にお前を怯え苦しませたくないという一念で、寡夫殉死の義務撤廃を急いでくれた、シヤナーハの真心を踏みにじる気か!?」


「まさか。第一僕が寡夫殉死をすることが、どうして罰や、ナーハに対する裏切りになってしまうというのですか?」

「何だと?」


 激しく詰るラウサガシュを振り切って、アズカヤルは半ば転げるようにもといた場所へと戻り、シヤナーハの柩を恋しげに擦った。


「ナーハが、法を、変えてくれた……。だから僕は、僕自身の意志で、愛する妻に殉じる道を選ぶことができるのです。本気で後追いをしたいなら、自ら火の中に飛び込ものだと、そうおっしゃられていたのは兄上ではありませんか」


 キヤンテにおいて、今後王妃の寡婦殉死の義務は廃す。しかし権利は認める――。


 それはラウサガシュが王位に就いて間もなくの頃、キヤンテの大僧正との直談判の末、最初に発した勅命だ。先の言葉はアズカヤルに、母親の死にまつわる話の一環として、教えてやった覚えがある。

 キヤンテの大僧正よりも厳めしそうな、タリクタムの大僧正を折伏するにあたって、シヤナーハはアズカヤルから聞き出した、キヤンテでの事例を参考にしたというのか? そしてシヤナーハも、自分と同じく後半の一文を、付け足さざるを得なかったのだと――。

 ラウサガシュはあまりのことに呻きながら、過去の自分が放った言葉を呪った。


「それは大僧正に、応と言わせるための建前だ。俺はどれだけ愛しい后であろうとも、後追いをしてもらいたいとは断じて思わん。死して貞女の誉れを得るよりも、命の限り生きて欲しい。それは兄弟であるお前にだって同様だ。

 やめろ、アズカヤル。お前には、先がある」

「先ですって?」


 ラウサガシュの大真面目な説得に、しかしアズカヤルは、暗く傷つけられた眼差しをした。

 自信に満ちたラウサガシュの傍らには、人型の猛獣を手懐けたと評判の、涼やかな麗人セーナーヴィーがいる。自分の無力と絶望の深淵を知ってしまったアズカヤルには、虎殺しの勇者の称号と、洋々たる前途を持った、兄からの制止はかえって逆効果だった。


「ナーハのいない世界で僕一人、生き永らえて何になるというのです? それよりも僕は知って欲しい。ナーハが決して、寺院をないがしろになんてしていなかったということを。僕がどれだけナーハを愛しているのかを。僕の死が僕らの真実を、証してくれるならそれでいい……」


 上半身を覆いかぶせるようにして、アズカヤルは柩の上からシヤナーハを抱き締めた。赤いストールが乱れてずれる。身も世もないほどのアズカヤルの嘆きのままに。

 アズカヤルの細い身体に絡みつく、シヤナーハの腕が見えた気がして、ラウサガシュはぞっとした。


「アズカヤル! いい加減に目を覚ませ! 痛いぞ、熱いぞ、苦しむぞ! 燃え盛る炎を前にして、小心者のお前が、竦まずにおれるものか! お前は継母上ははうえ同様に、俺に無残な死に様を晒す気か――」

「あなた」


 弟に手を上げかけたラウサガシュを押し留めて、セーナーヴィーが首を横に振った。忸怩たる思いで、ラウサガシュは拳を下げた。

 恐れはアズカヤルの中ではなく、それを見据えるラウサガシュの中に存在した。また一人、大切な身内の焼身を、目の当たりにせねばならないのかという恐怖――。


 ラウサガシュの震える拳を慰撫するように握ってから、セーナーヴィーはアズカヤルの側に膝を折り、その薄い背中にそっと手を添えた。


「では、最期を迎えるその時までに、きちんと三度の食事を取り、しっかりと床で休んで、姉上が愛した美しいあなたを取り戻してください。姉が心惹かれたアズカヤル殿は、こんな風にみすぼらしいお方ではあられなかったでしょう?

 それからこちらからも、気兼ねなくお願いを致します。アズカヤル殿、私どもを昼餐ちゅうさんにお招きいただけますか?」



*****



 キヤンテの国王夫妻が客室へ通されるのに合わせて、セーナーヴィーに昼餐のもてなしを求められたアズカヤルも、一旦自室へ引き揚げることになった。

 人魚宮には、古馴染みの侍女が数多くいる。今は自分に付いているよりも、気が済むまでアズカヤルの世話の手伝いを――と、状況を聞かされて、涙ぐむ筆頭女官を派遣させたセーナーヴィーと、客室で二人きりになってから、ラウサガシュは尋ねた。


「何故、止めた?」

「肉の痛みに訴えたところで、アズカヤル殿が、お気を変えられるとは思われませんでしたので。国葬の日を待つまでもなく、力加減を誤って、あなたの手で弟君を撲殺しかねないご様相でもありましたし」

「それほど俺はひどいつらをしていたか?」

「ええ、ラウサ。あなたにも、怖いものはあったのですね」


 今なお歪めた形相をしていると言いたげに、セーナーヴィーは長椅子に掛けたラウサガシュの頬に手を当てた。縋る思いでラウサガシュは、立ったままのセーナーヴィーをかき抱いた。


「ある。ことに寡婦殉死はな……。継母上の断末魔は、それはもう惨たらしいものだった。だから俺は法を改めた。二度と見ることはなかろうと思ってきたのに、よりにもよってあいつが……! 女王の寡夫になったといえども、アズカヤルはまだ、たったの十四なんだぞ!! 自決していいような歳じゃない!!」


 しかしアズカヤルは、その決心をしてしまった。いやむしろ、若さゆえの一途さがそうさせたと言うべきか。

 こんな未来が待ち構えているというならば、父王の葬儀の日、幼いアズカヤルを叩き起こしても、命乞いをする母親が炎に呑まれるまでの一部始終を、まざまざと見せつけておけばよかった。悔いても悔いても悔い足らず、ラウサガシュはぎりぎりと歯噛みした。


「僅かばかりではありますが、まだ日は残されております。陽の光を浴びて、人らしい生活をなさることで、生きる気力を取り戻してくだされば……」

「ああ」


 言った方も言われた方も、それは気休めに過ぎないのだと頭のどこかでわかっていた。けれども諦め悪く、足掻かずにはおれなかった。

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